<石川・金沢>もうすぐ「金沢おどり」①。芸妓・峯子さんを想う――別れと出会い

第12回金沢おどり 2015年9月19日(金)~22日(火)

北陸新幹線開業の、その日に逝った人

峯子さんうちわ●最後の「一調一管」は優しく聞こえた

2015年3月14日、北陸新幹線開業のまさにその日、金沢にし茶屋街の芸妓でお茶屋「美音(みね)」の女将、峯子さんが突然、逝った。藤舎秀扇の名をもつ笛の名人でもあり、小鼓の乃莉さんと2人で奏でる「一調一管」は高い評価を得、「金沢おどり」の人気演目の一つだった。昭和2年生まれ、享年87歳。朝までお元気だったそうだから、楽しみに待っていた新幹線開業を伝えるテレビニュースを見ることはできたのではないかと想像している。

昨年の9月20日、「第11回金沢おどり」公演後に楽屋を訪ね、「来年は新幹線で見に来ます」と言ったのが面と向かった最後だった。「ありがとう」――そう答えた峯子さんの目は珍しく潤んでいた。茶目っ気たっぷりに大きな声で、表情豊かによくしゃべる普段の様子とのギャップが少し心配だった。ふた月ほど前に電話で話したときは体調を崩していて、発するのもつらそうな声で「今、寝とる。耳もよく聞こえないがや」と言った。切ったあと「今年(の金沢おどり)は無理かもしれない……」と思わざるをえなかった。もう一度、魂の叫び声のような「一調一管」を聴きたいと思った。

その願いは叶った。峯子さんは周囲の心配を見事に覆し、公演が近づくと床から起き出して稽古を始め、一年ぶりに「一調一管」の舞台に上がったのだった。曲目は『飛翔』。演奏の間、私は目と耳を最大限、峯子さんに集中させた。翌々日の北國新聞に、総踊り『金沢風雅』の作詞者であり峯子さんとの親交も深い作家の村松友視さんの感想が掲載されていた。「これまでの龍虎相打つみたいなけんか腰の面白さではなく、もっと深いところで掛け合いの味わいが出てきた」(一部抜粋)。私がいつもより音色を優しく感じた印象もあながち外れてはいなかったのかもしれない。

●金沢を「大好きだ」と言えるように生きてきた

金沢にし美音 表札私が峯子さんに初めて会ったのは2010年6月。携わっていた三菱財団助成研究の一環で、戦前の花柳界を知る残り少ない現役芸妓のライフヒストリーを取材するために「美音」を訪れたのだ。峯子さんは、昭和11年、二二六事件の直後に、生まれ育った東京から姉が芸妓で出ていた金沢に連れて来られた。戦前、借金の形に娘が芸者置屋に奉公に上がることは珍しくなく、峯子さんは当時のいきさつを、自分は〝売りに出された〟と表現し〝口べらし〟だとも言った。そして、小学校3年生に上がる直前の春休みにわずか8歳で放り込まれた花街での暮らしを、まるで他人事のように淀みなく語った。「子どものころのこと、よーく覚えとるよ」と言いながら――。それは、途中で何度か返す言葉に窮するほど密度の濃いものだった。

峯子さんは16歳で芸妓になり、戦争中のブランクを挟んで生涯現役であり続けた。2012年には「一調一管」の芸術性が認められ、鼓の乃莉さんと共に石川県指定無形文化財(通称「いしかわの至宝」)保持者に認定されている。芸妓・奏者として芸道を追求する一方で、お茶屋の女将として若い芸妓衆を、笛の師匠として弟子を育てながら、西茶屋街芸妓組合長の要職も長く務めてきた。自分自身を高める努力だけでなく、金沢の茶屋街・芸妓文化・芸能全体の将来のために惜しみなく尽くしたところに、花柳界における峯子さんのかけがえのない価値がある。

そんな峯子さんは、元を辿れば半ば強引に連れて来られた金沢という土地を「大好きだ」と何度も繰り返した。「金沢ちゅうところは本当にいいところや。人間がゆったりしとる。東京はせせこましい……」。心からこう言えるような人生を、峯子さんは金沢の花街の中で歩んできたのだ。その間、いったいどれだけ多くを耐え、乗り越え、得てきたのだろう。

●峯子さんという高くて深い山を前にして

特急はくたか一度や二度の取材で満足するには、大きすぎる存在だった。もっと聞きたいと三度、四度と足を運ぶ。越後湯沢で上越新幹線を特急「はくたか」に乗り継ぎ、途中右手に日本海を眺めながら片道約5時間。復路はぐったり疲れたが、しばらくするとまた会いたくなる。あちこちに飛び、時代も前後する話を少しでも順序立てて聞けるようにと「峯子さん年表」を作って持って行くと、「ほー、熱心やねー。……そうや、そうや、そうやった。その通りや」と言いながら一つ一つの出来事を目で追っていた(結局あまり役に立たず、相変わらず話は激しく飛ぶのだが……)。こうして取材のために「美音」を訪れたのは2013年7月までに5回。それでも峯子さんという山は高く深く、対する私は力も覚悟も不十分で踏み込み切れなかった部分も多々ある。しかし回を重ねたからこそ話してくれた部分もあったに違いないと思うのだ。2012年末に取材内容の執筆に関する承諾書を持参すると、峯子さんは即、サインをしてくれた。

(続く)

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