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<フィクション>『幻の柳橋』【5章】平成11年。惜しまれながら、潔く。②(完)

「柳橋新聞」昭和33年7月15日発行より
「柳橋新聞」昭和33年7月15日発行より

【5】―②

多くの人が、柳橋花柳界衰退の原因は川の景観が失われたことだと言う。それが柳橋の魅力を損ねたことは否めない。しかし、本当にそれだけなのだろうか。柳橋がそれほどまで川に依存しきった花柳界だったはずはないのだが。

「もう少し柔軟だったら、生き残れたのでは……」と、千代子は未練がましくも思うのだった。芸者になるための試験が難しくて合格できず、新橋や赤坂に流れた子たちが、その土地で売れっ妓になったと聞いた。浅草の市丸、赤坂小梅、神楽坂はん子が次々とレコードデビューし、鶯芸者として人気者になる中、柳橋は、芸者が二足のわらじを履くことを許さず、芸者か歌手かの二者択一を迫った。料亭は最後の最後まで敷居を下げることなく、一見さんお断りを守り通した。

融通の利かない、頑固な花柳界――。それが柳橋の生き方だったのだろう。 続きを読む <フィクション>『幻の柳橋』【5章】平成11年。惜しまれながら、潔く。②(完)

<フィクション>『幻の柳橋』【5章】平成11年。惜しまれながら、潔く。①

「柳橋新聞」昭和33年7月15日発行より
「柳橋新聞」昭和33年7月15日発行より

【5】―①

「いな垣さん、とうとう閉めたそうですよ」

吉矢の芸者置屋を継いだ吉栄からそう聞いたとき、櫛を持つ千代子の手が止まった。吉矢が膝を痛めて座敷に出られなくなり、芸者を廃業して姉の住む郊外に引っ込んだとこの妓から聞いたのは、ふた昔以上前だった気がする。この町の重大情報は、いつも鏡ごしに千代子に伝わる。

いな垣は、柳橋で最後に一軒だけ残った料亭である。その店の廃業は、すなわち柳橋花柳界の終焉を意味する。1999年1月、千代子80歳の温かい冬に、柳橋芸妓組合解散。柳橋花柳界は400年の歴史に幕を下ろした。20名ほど残っていた芸者は出先を失い、そのときから「元芸者」になった。 続きを読む <フィクション>『幻の柳橋』【5章】平成11年。惜しまれながら、潔く。①

<フィクション>『幻の柳橋』【4章】昭和37年。変わっていく町。②

柳橋隅田川2【4】―②

遅くやってくる朝は静かで、夕暮れとともに華やかさを帯びる町。しかし、街灯は暗闇を煌々とは照らさずぼんやり灯る、どこか薄暗い町だった。それは、男女の二人連れとすれ違っても、だれなのか顔がはっきりわからない暗さ――この町に必要な、思いやりの暗さだった。

この町の住人は、普段着の芸者の後ろ姿を遠目にするだけで、それが素人ではないと見分けることができた。そんな自分をわかってか、芸者は昼間町を歩くときはあえて目立たないように振る舞うのだが、着こなしや身のこなしの独特な雰囲気は隠せず、周囲に溶け込めずにいるのである。 続きを読む <フィクション>『幻の柳橋』【4章】昭和37年。変わっていく町。②

<フィクション>『幻の柳橋』【4章】昭和37年。変わっていく町。①

柳橋隅田川【4】―①

「はいはい、お世話さま。またよろしく頼むわね」

と、いつもどおりの言葉を残してドアを開け、狭い路地を行く吉矢の背中をいつもより長く、姿が消えるまで見送った千代子は、久しぶりに河岸っぷちの光景を見たくなった。というより見ておかなければいけないような気がして、奥にいた夫に店を頼み、下駄をつっかけて表に出た。

柳橋花柳界は、隅田川と神田川と江戸通りに囲まれた東西200メートル、南北400メートル足らずの長方形の中にある。 続きを読む <フィクション>『幻の柳橋』【4章】昭和37年。変わっていく町。①

<フィクション>『幻の柳橋』【3章】川と芸者と柳橋。②

柳橋【3】―②

柳橋花柳界の発生は江戸時代中期といわれる。隅田川は当時、大川と呼ばれており、舟遊びは江戸時代初期からすでに盛んで、川沿いの水茶屋が行楽客の休憩所としてにぎわっていた。大川は、春の花見、夏の納涼、秋の月見、冬の雪景色と、一年をとおして人々を飽きさせることはなかった。

川の存在を基盤として、柳橋が一流の花柳界として発展を遂げるきっかけとなった江戸時代の出来事を三つ挙げることができる。 続きを読む <フィクション>『幻の柳橋』【3章】川と芸者と柳橋。②

<フィクション>『幻の柳橋』【3章】川と芸者と柳橋。①

柳橋【3】―①

どの花柳界にもそこが栄えた背景や人が集まる理由、地の利というものがある。新橋が鉄道と銀座と歌舞伎座、赤坂が海軍と国会議事堂と官公庁、浅草が吉原と浅草寺と芝居小屋、神楽坂が路地と文士と早稲田大学だとすれば、柳橋は隅田川である。

座敷に居ながらにして川を眺められ、川風に吹かれることを売りにできる花柳界は東京では珍しい。 続きを読む <フィクション>『幻の柳橋』【3章】川と芸者と柳橋。①

<フィクション>『幻の柳橋』【2章】戦前。柳橋芸者の髪を結う日々。②

芸者影20 2【2】―②

お鯉は、柳橋を渡った両国広小路側の米沢町という江戸時代からの芸者町に住んでおり、いつも朝六時ころ髪を結いにやってきた。士族の出で姿かたちも気風も良く、品のある顔立ちで、二十代ながらいっぱしの芸者の貫禄を持ち合わせていた。

真冬の早朝はまだ暗く、寒さに手先も思うように動かない。鏡の前に座ったお鯉は、ぎこちない手つきで髪をほどく千代子に、「おじょうちゃん、手が冷たいだろ、禿で温めな」と言う。千代子は「はい」と小さな声で返事をし、かじかむ手をお鯉の後頭部の10年玉大の禿に当ててその体温をしばらくの間、奪い取らせてもらうのだった。「温まったかい? それじゃあ頼むよ」の言葉を合図に、千代子は髪を梳き始めた。

お鯉は、自害という壮絶な死に方で千代子の心に強く印象づけられた芸者でもある。 続きを読む <フィクション>『幻の柳橋』【2章】戦前。柳橋芸者の髪を結う日々。②

<フィクション>『幻の柳橋』【2章】戦前。柳橋芸者の髪を結う日々。① 

芸者影20 2【2】ー①

千代子がこの土地で一番、東京でも指折りと評判の高い綿引結髪所に見習いで入ったのは昭和8年、数えで15のときだった。

花柳界全盛時代である。東京市内15区すべてに、少なくとも1か所、多いところでは3か所の花柳界が存在し、その数約30。さらに隣接する市街の20花街を加え、合わせて東京50花街の中に芸者8000名、娼妓5200名がひしめいていた。

中でも柳橋は、等級でいえば一等地の甲。「新柳二橋」という言い方があるように、新興地の新橋と伝統の柳橋をもって東京の代表的花街とするのは誰もが認めることであり、他に一等地の甲に赤坂と日本橋、一等地の乙に芳町と烏森をあげるのが妥当なところだった。

綿引結髪所は千代子のような若い見習いを20数名抱えた大きな店である。

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<フィクション>『幻の柳橋』【1章】昭和37年夏。花火が、なくなる。③

【1】―③

3時、最初の一発が上がると、河岸の桟敷、川面の舟、料亭の座敷、川沿いのビルのベランダや屋上、橋の上とあらゆる場所から嬌声が上がる。芸者たちは舟から舟、桟敷から桟敷へと忙しくお酌をしながら回る。客に連れてこられたよそ土地の姐さん方もたくさん混じっている。よく見れば、柳橋芸者とは着物の色柄や帯の結び方が微妙に違う。

暗くなるにつれ、花火も鮮やかさを増し、7時半、呼び物の仕掛け花火が始まると歓声もクライマックスだ。名城シリーズだった去年の仕掛け花火は熊本城、名古屋城、大阪城が色とりどりの楼閣となって浮かび上がった。一昨年は皇太子ご成婚を祝う連獅子と東京タワー、オリンピック開催が決定した年には五輪の花火が人々の瞼に焼きついた。

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<フィクション>『幻の柳橋』【1章】昭和37年夏。花火が、なくなる。②

【1】―②

昭和12年を最後に戦争で中断していた両国川開きの花火大会は、23年、11年ぶりに復活した。それは柳橋花柳界の、戦後最盛期の幕開けでもあった。戦争をはさんでの5,6年は花柳界もなりを潜めていた時代である。戦時色が濃くなるにつれ料亭の営業時間も徐々に短縮され、派手な宴会は自粛。芸者の着物も地味になり、ついに昭和19年3月、警視庁は酒屋やバーなどと共に全国の料亭、待合、芸者屋を閉鎖。日本中の花柳界の灯が消えた。

終戦直後の20年10月に料亭や芸者屋の営業が再び許可されると、疎開していた芸者たちも戻りはじめ、花柳界は急激に賑わいを取り戻す。新橋の東をどりが23年に再開、赤坂をどりが24年に開始したのは、花柳界復活を世の中にアピールする十分な効果があったが、それと前後しての花火の開催だった。

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