<フィクション>『幻の柳橋』【5章】平成11年。惜しまれながら、潔く。②(完)

「柳橋新聞」昭和33年7月15日発行より
「柳橋新聞」昭和33年7月15日発行より

【5】―②

多くの人が、柳橋花柳界衰退の原因は川の景観が失われたことだと言う。それが柳橋の魅力を損ねたことは否めない。しかし、本当にそれだけなのだろうか。柳橋がそれほどまで川に依存しきった花柳界だったはずはないのだが。

「もう少し柔軟だったら、生き残れたのでは……」と、千代子は未練がましくも思うのだった。芸者になるための試験が難しくて合格できず、新橋や赤坂に流れた子たちが、その土地で売れっ妓になったと聞いた。浅草の市丸、赤坂小梅、神楽坂はん子が次々とレコードデビューし、鶯芸者として人気者になる中、柳橋は、芸者が二足のわらじを履くことを許さず、芸者か歌手かの二者択一を迫った。料亭は最後の最後まで敷居を下げることなく、一見さんお断りを守り通した。

融通の利かない、頑固な花柳界――。それが柳橋の生き方だったのだろう。

かつて明治維新によって世の中が大きく変化し、花柳界の客層が一変したとき、それに柔軟に対応した新橋、赤坂など新興花柳界は大きく発展した。ところが柳橋は、遊び方を知らない新政府の役人たちを、所詮田舎者と嫌い、肘鉄をくらわし、その結果、時代錯誤も甚だしい、と非難され、勢いをなくしたという。

柳橋は当然にようにその道を選んだ、明治の昔も、平成の今も。

この余裕のない社会に合わせて生き方を変えるなど、柳橋芸者の沽券に関わることだったのだろう。まだ十二分に芸者としての華と技を持ちながら出先だけを失った柳橋の芸者が、「惜しまれながら灯を消すことができてよかった。柳橋芸者として芸者人生に幕を下ろすことができたことは本望」と言ったのが、なぜか少しも恨みがましくなく、負け惜しみにも聞こえないのである。

もう町中を歩いても、花柳界らしい光景はほとんど見当たらない。東京はこの40年で、あまりにも変わりすぎ、柳橋は人々の思い出の中だけに残る幻の花柳界となった。実体は消えても記憶に残る、という存続のしかたがあるのかもしれない。ふと、お鯉の面影が千代子の頭をよぎった。もう頭に禿のある芸者はひとりもいなくなった、と思ったとき、千代子の中で何かがふっきれた。

「川のせいにでもしなくちゃ、お姐さんたち……」

可哀相、の言葉は飲み込んだ。芸者にその言葉だけは使ってはいけない気がした。「柳橋が栄えたのも滅びたのも、みんな川のせい」と自分にいい聞かせて、千代子は再び忙しく櫛を動かし始めた。

(完)

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