<フィクション>『幻の柳橋』【5章】平成11年。惜しまれながら、潔く。①

「柳橋新聞」昭和33年7月15日発行より
「柳橋新聞」昭和33年7月15日発行より

【5】―①

「いな垣さん、とうとう閉めたそうですよ」

吉矢の芸者置屋を継いだ吉栄からそう聞いたとき、櫛を持つ千代子の手が止まった。吉矢が膝を痛めて座敷に出られなくなり、芸者を廃業して姉の住む郊外に引っ込んだとこの妓から聞いたのは、ふた昔以上前だった気がする。この町の重大情報は、いつも鏡ごしに千代子に伝わる。

いな垣は、柳橋で最後に一軒だけ残った料亭である。その店の廃業は、すなわち柳橋花柳界の終焉を意味する。1999年1月、千代子80歳の温かい冬に、柳橋芸妓組合解散。柳橋花柳界は400年の歴史に幕を下ろした。20名ほど残っていた芸者は出先を失い、そのときから「元芸者」になった。

思い返せば、40年前に千代子が柳橋の老いを感じて以来、この町は静かに余生を送ってきたのかもしれない。昭和47年、首都高向島線開通。隅田川護岸の防潮堤工事は10余年の歳月を費やして昭和50年に完成。高さ5メートルに及ぶ分厚いコンクリートの塊は、料亭と川とを容赦なく遮断し、座敷からの眺めを無粋に変えた。川と空の代わりに灰色の壁が目の前に立ちはだかり、視野を遮り、それは座敷にも訪れる人々の心にも暗い影を落とした。長年の馴染み客の足は遠のき、料亭の廃業続出に歯止めが効かない。

昭和51年、柳橋の象徴的存在であった創業140年の料亭亀清楼が木造の日本家屋を取り壊す。2年後に10階建てのビルに建て替わり、芸者の入らない割烹料理店とマンション経営へと方向転換した。同53年、隅田川の花火大会が再開したが、柳橋には戻ってこなかった。打ち上げ場所は柳橋から1.5キロ下流の浅草へ移り、音だけが柳橋の空に響いた。料亭は10軒足らずに減っており、組合に花火を仕切る力は、もう残っていなかった。

寂しいが、誰も非難できないことばかりが、この町に起きていた。

(続く。次回最終回)

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