<フィクション>『幻の柳橋』【4章】昭和37年。変わっていく町。②

柳橋隅田川2【4】―②

遅くやってくる朝は静かで、夕暮れとともに華やかさを帯びる町。しかし、街灯は暗闇を煌々とは照らさずぼんやり灯る、どこか薄暗い町だった。それは、男女の二人連れとすれ違っても、だれなのか顔がはっきりわからない暗さ――この町に必要な、思いやりの暗さだった。

この町の住人は、普段着の芸者の後ろ姿を遠目にするだけで、それが素人ではないと見分けることができた。そんな自分をわかってか、芸者は昼間町を歩くときはあえて目立たないように振る舞うのだが、着こなしや身のこなしの独特な雰囲気は隠せず、周囲に溶け込めずにいるのである。それでいて芸者は素人と接するときは少しもよそよそしさがなく、気さくでさっぱりしている。気に入らないときはきつい物言いで叱りもするが、翌日はけろっとしているのだった。ほんのわずかな立ち話の間にも、長年の座敷経験で身についた無駄のなさと間の良さは、ちょっとした仕草に表れた。この町の人々は、料亭に上がって芸者を呼んだことなど一度もなくても、芸者というものを尊敬し、そして好いていた。

一回りしても20分とかからないこの狭い世界を、千代子は、周囲から切り取られた一つの島のようだといつも思う。流れる空気が、隣り合う問屋街や商店街や職人町とは、明らかに違っているのだ。そんな、洗練され垢抜けた柳橋の町柄は、「山の手のお屋敷町でありながらくだけて気楽であり、向こう三軒両隣の温かさがある」とも、「芝居の花道を歩いているようだ」とも言われた。

河岸っぷちの料亭街を南に抜ければ柳橋の袂に出る。橋の途中で隅田川の対岸に目をやったとき、千代子は思わず顔をしかめた。しばらく見ないうちに高速道路と護岸の防潮堤の建設工事が進み、川と空との間に鉄とコンクリートの異物が巨大な姿をさらしていた。遠くにありながらそれは、予想以上の威圧感で迫ってきた。しかし、千代子の顔をしかめさせたのは、実は視覚よりも嗅覚が先だった。水面に視線を落とすと、悪臭の元が力なく淀んでいた。

踵を返し店へと小走りで急いだ。角を曲がると突然、そこだけ四角く切り取られたような更地が目に飛び込んできた。そこは、つい先日女将が入院したと聞いたばかりの待合があった場所。そして千代子が若いころ何度もなでつけに通った芸者屋は、いつのまにか繊維問屋に変わり、不似合に新しく安っぽいプラスチックの看板が掲げられていた。

決して後戻りすることのない変化が、この町を確実に塗り替え始めていた。高度成長期をひた走る日本。この町だけが昔のままでいられるはずはない。ならば行きつく先は……。前から少しずつ始まっていたはずなのに何かの拍子に突然感じる体力の衰えのように、千代子はこの日、柳橋花柳界の老いを感じた。

人はなぜ、手遅れになってからでないと、それを大切にすることができないのだろう。せめて今年の夏、もう一度だけ花火を見たい、と千代子は思った。

(続く)

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