<フィクション>『幻の柳橋』【1章】昭和37年夏。花火が、なくなる。③

【1】―③

3時、最初の一発が上がると、河岸の桟敷、川面の舟、料亭の座敷、川沿いのビルのベランダや屋上、橋の上とあらゆる場所から嬌声が上がる。芸者たちは舟から舟、桟敷から桟敷へと忙しくお酌をしながら回る。客に連れてこられたよそ土地の姐さん方もたくさん混じっている。よく見れば、柳橋芸者とは着物の色柄や帯の結び方が微妙に違う。

暗くなるにつれ、花火も鮮やかさを増し、7時半、呼び物の仕掛け花火が始まると歓声もクライマックスだ。名城シリーズだった去年の仕掛け花火は熊本城、名古屋城、大阪城が色とりどりの楼閣となって浮かび上がった。一昨年は皇太子ご成婚を祝う連獅子と東京タワー、オリンピック開催が決定した年には五輪の花火が人々の瞼に焼きついた。

午後9時半、「終」の文字仕掛け花火が上がり、江戸時代からのしきたりに則って船頭たちが提灯で「のの字」を書くと、これが花火終了の合図となる。

ちょうどそのころ、甘味処「にんきや」の電話が立て続けに鳴り始め、「あんみつ20に、みつまめ15。いい? できるだけ急いでちょうだいよ」などと、料亭から出前の注文が殺到する。座敷で「お前たち、何でも好きなものを頼みなさい」と振る舞い、芸者たちを喜ばせるのも常連客にとっては花火の後のもう一つの楽しみなのだった。

花火の翌朝、柳橋界隈は静まり返っていた。力を出し尽くし、疲れ切った虚脱感が町全体に充満している。

ただ一か所、人だかりが出来ているのは船宿小松屋の前だ。近所の小料理屋、酒屋、米屋が一年分のツケを取り立てに集まっている。花火の舟の手配を取り仕切っていた小松屋が「一晩で一年分を儲ける」と噂されたのは、あながち外れてはいないらしい。一年分の勘定を花火の翌日に払うことを「花勘」と呼び、それは柳橋の隠語となっていた。

その、花火がなくなる。

千代子は、花火がなくなるという事実を、自分自身の寂しさとしてよりも、柳橋という町の寂しさととらえた。柳橋の寂しさはすなわち花柳界の寂しさであり、芸者衆の寂しさである。長年、花柳界のど真ん中で、素人でありながら玄人の世界を向いて商売をしてきた千代子にとって、それは当然の感覚だった。

「千代ちゃん、すまないね、今日はちょいと急ぎなんだよ」

「あ、すみません」

吉矢の声に慌てて手を動かし始めた次の瞬間、櫛は千代子の手をすりぬけ、乾いた音をたてて床に落ちた。「あらあら」と声が出たのは吉矢のほう。無言の千代子が見た鏡の中には、櫛が落ちた、ただそれだけのことに動揺している情けない顔と、ふだんと変わらないもう一つの顔があった。

またひとつ、柳橋の情緒が消えていく。

(続く)

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