<フィクション>『幻の柳橋』【1章】昭和37年夏。花火が、なくなる。②

花火【1】―②

昭和12年を最後に戦争で中断していた両国川開きの花火大会は、23年、11年ぶりに復活した。それは柳橋花柳界の、戦後最盛期の幕開けでもあった。戦争をはさんでの5,6年は花柳界もなりを潜めていた時代である。戦時色が濃くなるにつれ料亭の営業時間も徐々に短縮され、派手な宴会は自粛。芸者の着物も地味になり、ついに昭和19年3月、警視庁は酒屋やバーなどと共に全国の料亭、待合、芸者屋を閉鎖。日本中の花柳界の灯が消えた。

終戦直後の20年10月に料亭や芸者屋の営業が再び許可されると、疎開していた芸者たちも戻りはじめ、花柳界は急激に賑わいを取り戻す。新橋の東をどりが23年に再開、赤坂をどりが24年に開始したのは、花柳界復活を世の中にアピールする十分な効果があったが、それと前後しての花火の開催だった。

1万発の花火が打ち上げられるのは両国橋と上流の蔵前橋、距離にして約1キロメートルの間で、両国橋のすぐ上(かみ)にあたる柳橋にとってはまさにお膝元の大行事だ。花火の主催は両国花火組合。その主体は柳橋組合(花柳界の組合)である。これだけの大行事を仕切り、運営する柳橋組合というものがいかに有力で潤沢な資金を有していたかがわかる。それだけ、当時の花柳界には勢いがあったのである。

7月の声を聞くと、柳橋の人々は急にそわそわしはじめる。やがてそれを見透かしたかのように「大花火」と太筆書きされた火ビラが家々の軒に貼りだされると、人々の心は否応なくかきたれられ、頭の大半を花火に占拠されてしまうのだった。毎年数百枚の火ビラを手書きで作るのも柳橋組合の大事な仕事だ。「一枚目の最後の一文字が滲んだら雨になる」とのジンクスがあり、それに拠るなら戦後、文字が滲んでしまったのは昭和33年のただ一度きりであった。

開催は7月の最終土曜日。1週間前には、隅田川の両岸1キロ半にわたって、見物会場となる桟敷の設営が整う。中でも眺めが良いと人気があるのは両国橋西詰めの北側、小唄や新内で知られる花井お梅の峯吉殺しで有名な「大川端の浜町河岸」二千坪の桟敷だが、この特等席の大半は河岸っぷちの料亭によって馴染み客のために借り切られてしまう。

料亭や料理屋は、4、5日前から不眠不休で料理の仕込みにとりかかる。延期になって大量に用意した料理が無駄になっては大変と、法華経の団扇太鼓を持ち出してドンドンと打ち鳴らし、一心に雨除けを祈る料亭の女将がいるかと思えば、それを見て「お鳴り物なんか出したら雷様が喜んで雨が降るのに、何を考えているんだか…」と聞こえよがしにつぶやく女将もいる。

そして当日、すでに朝早くからこの町には異様な興奮が漂い始めている。8時過ぎ、柳橋の袂の船宿小松屋が手配した舟が、隅田川の下流、遠くは千葉・浦安方面からこの橋を目指し、白波を立てながら続々とやってくる。数にして400艘。神田川の川面は、舟づたいに歩いて対岸に渡れるほど舟でぎっしり埋まり、やがて20艘、30艘と河岸っぷちの各料亭からの注文数に応じて振り分けられる。それらは料亭の真下の川面に規則正しく並べられ、流されないように繋がれると、一夜限りの即席の見物席ができあがった。

国鉄はこの日のために、京浜、東北、中央、総武、常磐の各路線で臨時電車を増発。それらを満員にした客たちが、10時ころから弁当や水筒を手に柳橋に集まりはじめる。浴衣の男女、家族連れ、会社のグループ、商社に接待された外国人。仕出し弁当やビールを山積みにしたリヤカーがひっきりなしに道を往復する。昼過ぎには交通規制も始まり、1万人近い警備の警官や腕章をつけた町会役員は声をはりあげ整理に汗だくだ。1マス4500円の桟敷はプレミアがついて1万円、料亭は1室10万円の高値となり、ビルの屋上には「百円で席あり」と商魂たくましい貼り紙が揺れる。芸者は午前中に銭湯と髪結いを済ませ、花火のために用意された揃いの浴衣に着替えて準備万端だ。

(続く)

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