<フィクション>『幻の柳橋』【2章】戦前。柳橋芸者の髪を結う日々。① 

芸者影20 2【2】ー①

千代子がこの土地で一番、東京でも指折りと評判の高い綿引結髪所に見習いで入ったのは昭和8年、数えで15のときだった。

花柳界全盛時代である。東京市内15区すべてに、少なくとも1か所、多いところでは3か所の花柳界が存在し、その数約30。さらに隣接する市街の20花街を加え、合わせて東京50花街の中に芸者8000名、娼妓5200名がひしめいていた。

中でも柳橋は、等級でいえば一等地の甲。「新柳二橋」という言い方があるように、新興地の新橋と伝統の柳橋をもって東京の代表的花街とするのは誰もが認めることであり、他に一等地の甲に赤坂と日本橋、一等地の乙に芳町と烏森をあげるのが妥当なところだった。

綿引結髪所は千代子のような若い見習いを20数名抱えた大きな店である。

主人は綿引あき。柳橋の髪結いといえば他に伊賀屋、寺沢など大小数軒の名があがるが、芸者屋ごとに行きつけの店が決まっていた。同じ日本髪でも店によって結い方に特徴があり、「粋な伊賀屋」に対して「上品な綿引」には連日、芸者ばかりでなく横山町、馬喰町、小伝馬町あたりから素人の奥さんや娘たちも大勢訪れていた。

綿引のある神田川沿いの通りは、真夏でも柳並木の枝を揺らす川風が心地よい。順番を待つ浴衣姿の芸者が店の前の縁台に腰かけ、団扇であおぐ姿と、柳の緑――。まさに花柳の光景であった。

戦前の芸者は皆、地毛で日本髪を結った。芸歴55年の吉矢も、70を過ぎた今ではもっぱら三味線弾きの地方として若い芸者を踊らせる役回りとなり、髪も洋髪になったが、立方として華やかに踊っていたころは毎日、島田に結いに綿引に通ってきた。その、腰までの黒髪はほれぼれするほど艶やかで、毛先は毛筆の筆先のように自然にスーッと伸びていた。主人で師匠のあきが「こういうのを〝筆の先細り〟と言うんだよ。結いやすいだろ」と教えてくれたものだった。

吉矢の後頭部には、かつて日本髪を結っていたころの名残があった。十円玉大の禿である。十代のお酌時代から毎日、髷となる部分の髪の束をきつく引っ張り続けるために、多くの芸者は20代からその部分の髪が抜けてしまうのだ。聞くところによると、この禿を取る手術があり、一部の芸者の間で流行っているらしい。禿の部分を丸く切り取り、巾着のように周囲をきゅっと縫い縮めるのだという。

そんな禿を見ると千代子は、綿引に来たての子供のころ、とても可愛がってもらったお鯉という芸者を思い出すのだった。

(続く)

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