<フィクション>『幻の柳橋』【4章】昭和37年。変わっていく町。①

柳橋隅田川【4】―①

「はいはい、お世話さま。またよろしく頼むわね」

と、いつもどおりの言葉を残してドアを開け、狭い路地を行く吉矢の背中をいつもより長く、姿が消えるまで見送った千代子は、久しぶりに河岸っぷちの光景を見たくなった。というより見ておかなければいけないような気がして、奥にいた夫に店を頼み、下駄をつっかけて表に出た。

柳橋花柳界は、隅田川と神田川と江戸通りに囲まれた東西200メートル、南北400メートル足らずの長方形の中にある。そこは江戸時代より下平右衛門町、上平右衛門町と呼ばれた芸者町で、昭和9年に柳橋1,2丁目と変更された。かつては柳橋を渡った両国広小路方面にも同朋町、吉川町、米沢町、薬研堀など由緒ある芸者町があったが、やはり東日本橋1、2丁目と改名され、関東大震災後の区画整理で花柳界の中心は神田川の北側に置かれるようになった。

ここは、料亭、芸者置屋、芸者という玄人と、千代子のような髪結い、車屋、按摩、芸事の師匠、甘味屋、鮨屋、うどん屋、和菓子屋、鰻屋、おでん屋、駄菓子屋など玄人相手の商売人で成り立つ町だ。芸者が糠味噌臭くならないよう、手が荒れないよう、所帯じみた仕事は花街の素人たちがすべて引き受ける。

千代子のように花柳界の中で商売をしている者たちは、素人の世界と玄人の世界の境をわきまえており、向こうの流儀を中途半端に取り入れたり、流儀に口を挟んだりすることはない。それは花柳界の中で生きる素人に自然に身についた賢さだといえる。芸者の真似をしたがるのは、花柳界を知らない女性たちと決まっていた。着物にも帯にも玄人好みと素人好みがあり、柄も着方も違えば、誂える呉服屋も違う。もし自分の着こなしを「まるで芸者さんのよう」と言われたとしたら、向こうの領分を少しでも侵してしまったことを恥だと思う、そういうふうにこの町の女性たちは育てられてきた。

花柳界は、玄人と素人という異なる二つの人種が競わず侵さず、それぞれの分をわきまえながら同じ町内の住人として日常を共有している不思議なところだった。

通りを東に向かうと河岸っぷちの料亭街に突き当たる。隅田川に面して堂々と構える料亭は、一見さんお断りだ。周囲をぐるりと取り囲む塀と固く閉ざされた戸は、あきらかに人を拒絶しており、とくにしーんと静まった人気のない昼間の料亭には、入れるものなら入ってみろと言わんばかりの冷たさがあった。

この究極の閉鎖的な佇まいが、中に入れる特権階級の優越感を満足させる。静まり返った通りは夜になると政財界の大物たちを乗せた外車で埋め尽くされた。ある料亭は「外務省接待部」などと呼ばれ、国賓をもてなす場としても使われた。

まだ国産の自家用車さえごく限られた人しか持てなかった時代に、その町を多くの外車が走り抜け、連なって駐車した。花街の中で育った子供たちにとって、車といえば外車であり、国産車のほうが珍しかったほどだ。その外車の間を縫うように、芸者を乗せた人力車が行き来する。「売れる芸者の下駄は減らない」といわるように、お座敷姿で道を歩くのは芸者の沽券にかかわることだと、誰もが思っていた。近くても車屋を呼び、人力車で出先に向かうのが一流芸者のプライドであり、同時にこの光景そのものが一流の花柳界の証でもあった。

(続く)

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