<フィクション>『幻の柳橋』【3章】川と芸者と柳橋。②

柳橋【3】―②

柳橋花柳界の発生は江戸時代中期といわれる。隅田川は当時、大川と呼ばれており、舟遊びは江戸時代初期からすでに盛んで、川沿いの水茶屋が行楽客の休憩所としてにぎわっていた。大川は、春の花見、夏の納涼、秋の月見、冬の雪景色と、一年をとおして人々を飽きさせることはなかった。

川の存在を基盤として、柳橋が一流の花柳界として発展を遂げるきっかけとなった江戸時代の出来事を三つ挙げることができる。

ひとつは明暦3年(1657)の大火である。猛火に追われ逃げ遅れた人々が大川端で大量に命を落とした悲劇がもとで、万治3年(1660)、大橋(後の両国橋)が架橋。柳橋と両国方面が橋でつながり、人々の往来が格段に増えた。

さらに同年、それまで日本橋芳町にあった吉原遊郭が「御用地に悪所があるのは何かとよろしくない」と、浅草北方の日本堤に移転。これによって、多くの登楼客が「柳橋から小舟で急がせ山谷堀」と小唄にも唄われるように、柳橋の船宿で舟を調達して川を上り、山谷堀から日本堤へ出て水路で吉原へ向かうようになったのである。

こうして柳橋は、南は日本橋、八丁堀、芝浦、品川、北は浅草、隅田、橋場、東は本所、深川、柳島、亀戸、西は下谷、本郷、牛込、番町と、江戸中どこへ行くにも通過点となる交通の要衝となった。人々が集まるにつれ船宿、水茶屋、料理屋の数も増え、貞享年間(1684-1688)には踊り子がそれらの店で接待をするようになった。これが芸者の前身だといわれる。

そして、のちに〝江戸一番〟を冠することになる柳橋芸者の気質と格式を形づくったきっかけは、天保の改革(1832)で岡場所(私娼地。幕府の認めた公娼地は吉原遊郭だけであった)がつぶされ、多くの深川芸者が柳橋に住み替えたことである。

深川は富岡八幡宮の門前町から発達した花街で、岡場所の一等地であり、吉原と並んで〝江戸の二大花街〟と称され、比較されもした。儒者の寺門静軒は著書『江戸繁盛記』(天保2~=1831~)の中で、「墨水の花は、吉原の娼に似たり。上野の花は、深川の妓に似たり」と表現している。墨水の花(隅田川の桜)は八重で色が濃い、上野の桜は一重で色は淡い。つまり吉原の娼妓は派手な衣裳で化粧が濃いが、深川芸者はすっきりした衣裳で薄化粧だ、というのである。柄は無地か小紋、薄模様のごくさっぱりしたものだったという。

深川芸者は、その地が江戸城から見て辰巳(東南)の方角にあたることから「辰巳芸者」、また本来男性の装いである羽織を着たことから「羽織芸者」と、二つの異名をもっていた。〝張りと意地〟を身上とした江戸芸者の代名詞ともいえる存在で、芸名も、春治、鶴吉、米吉、仲次、三木蔵、かめ次、高助、佐吉など男名前が多かった。

このような深川芸者が柳橋に移り住み、その後の柳橋芸者の性質の元となった。こうして江戸時代後期には、成島柳北が自らの遊蕩体験を詳しく描いた『柳橋新誌』(りゅうきょうしんし。安政6年=1859)で、「江都、歌妓の多くして佳なるもの、斯の地を以って冠となす」(江戸の中でも芸者の数が多く美人そろいなのは柳橋がいちばんである)、さらにその性質は、「薄化粧で、意気がさっぱりとしていて媚びない。世間で言う神田上水を飲む江戸っ子かた気で、深川の余風を持っている」と絶賛するに至る。この性質は明治維新後も変わることなく、『東京妓情』(酔多道士・明治16年)には、「嗚呼東京三千の歌妓中、関東の気性を堕さず、昔時江戸の趣を存する者、唯り柳橋あるのみ、之を東京一の芸者と云はずして何ぞや」と書かれている。

まさに柳橋は「東に大川、北に吉原、辰巳に深川」という、花柳界としてこの上ない地の利に恵まれていたのである。

(続く)

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