sumikuri のすべての投稿

<花柳界入門>マナーとコツ⑦芸者衆にも「どうぞ」とお酌を

「お姐さんもいかがですか」のひと言を

半玉さん用の小さなお猪口(手前の3つ。小樽・海陽亭)
半玉さん用の小さなお猪口(手前の3つ。小樽・海陽亭)

さまざまな技を駆使し、お座敷をその場に相応しく盛り上げるのが芸者衆の仕事ですが、「お酌」は、踊りや会話と同様、大事なもてなしの手段の一つです。初対面のお客さんと打ち解けるのも、会話の糸口を摑むのも、堅苦しい雰囲気を和らげるのも、まずはタイミングのよいお酌から。まさに芸者衆はお酌のプロといえます。

ベテランの芸者衆は、お銚子を持ちあげたときの重さであとどのくらいお酒が残っているかを正確に把握するといいます。「ごめんなさい、8分目しかないわ」と言いながら注ぐとお猪口にぴったり8分目。「あと2杯分ね」と言うと、ぴったり2杯分。数えきれないほどの回数、お酌をし続けて来た経験から「このお銚子でこの重さなら、お酒の量はこれくらい」と感覚で染みついているのでしょう。残りを確かめようと上から覗いたり、お銚子を振ったりするのは行儀が悪いと先輩から止められたそうです。 続きを読む <花柳界入門>マナーとコツ⑦芸者衆にも「どうぞ」とお酌を

<フィクション>『幻の柳橋』【3章】川と芸者と柳橋。①

柳橋【3】―①

どの花柳界にもそこが栄えた背景や人が集まる理由、地の利というものがある。新橋が鉄道と銀座と歌舞伎座、赤坂が海軍と国会議事堂と官公庁、浅草が吉原と浅草寺と芝居小屋、神楽坂が路地と文士と早稲田大学だとすれば、柳橋は隅田川である。

座敷に居ながらにして川を眺められ、川風に吹かれることを売りにできる花柳界は東京では珍しい。 続きを読む <フィクション>『幻の柳橋』【3章】川と芸者と柳橋。①

<フィクション>『幻の柳橋』【2章】戦前。柳橋芸者の髪を結う日々。②

芸者影20 2【2】―②

お鯉は、柳橋を渡った両国広小路側の米沢町という江戸時代からの芸者町に住んでおり、いつも朝六時ころ髪を結いにやってきた。士族の出で姿かたちも気風も良く、品のある顔立ちで、二十代ながらいっぱしの芸者の貫禄を持ち合わせていた。

真冬の早朝はまだ暗く、寒さに手先も思うように動かない。鏡の前に座ったお鯉は、ぎこちない手つきで髪をほどく千代子に、「おじょうちゃん、手が冷たいだろ、禿で温めな」と言う。千代子は「はい」と小さな声で返事をし、かじかむ手をお鯉の後頭部の10年玉大の禿に当ててその体温をしばらくの間、奪い取らせてもらうのだった。「温まったかい? それじゃあ頼むよ」の言葉を合図に、千代子は髪を梳き始めた。

お鯉は、自害という壮絶な死に方で千代子の心に強く印象づけられた芸者でもある。 続きを読む <フィクション>『幻の柳橋』【2章】戦前。柳橋芸者の髪を結う日々。②

<フィクション>『幻の柳橋』【2章】戦前。柳橋芸者の髪を結う日々。① 

芸者影20 2【2】ー①

千代子がこの土地で一番、東京でも指折りと評判の高い綿引結髪所に見習いで入ったのは昭和8年、数えで15のときだった。

花柳界全盛時代である。東京市内15区すべてに、少なくとも1か所、多いところでは3か所の花柳界が存在し、その数約30。さらに隣接する市街の20花街を加え、合わせて東京50花街の中に芸者8000名、娼妓5200名がひしめいていた。

中でも柳橋は、等級でいえば一等地の甲。「新柳二橋」という言い方があるように、新興地の新橋と伝統の柳橋をもって東京の代表的花街とするのは誰もが認めることであり、他に一等地の甲に赤坂と日本橋、一等地の乙に芳町と烏森をあげるのが妥当なところだった。

綿引結髪所は千代子のような若い見習いを20数名抱えた大きな店である。

続きを読む <フィクション>『幻の柳橋』【2章】戦前。柳橋芸者の髪を結う日々。① 

<フィクション>『幻の柳橋』【1章】昭和37年夏。花火が、なくなる。③

【1】―③

3時、最初の一発が上がると、河岸の桟敷、川面の舟、料亭の座敷、川沿いのビルのベランダや屋上、橋の上とあらゆる場所から嬌声が上がる。芸者たちは舟から舟、桟敷から桟敷へと忙しくお酌をしながら回る。客に連れてこられたよそ土地の姐さん方もたくさん混じっている。よく見れば、柳橋芸者とは着物の色柄や帯の結び方が微妙に違う。

暗くなるにつれ、花火も鮮やかさを増し、7時半、呼び物の仕掛け花火が始まると歓声もクライマックスだ。名城シリーズだった去年の仕掛け花火は熊本城、名古屋城、大阪城が色とりどりの楼閣となって浮かび上がった。一昨年は皇太子ご成婚を祝う連獅子と東京タワー、オリンピック開催が決定した年には五輪の花火が人々の瞼に焼きついた。

続きを読む <フィクション>『幻の柳橋』【1章】昭和37年夏。花火が、なくなる。③

<フィクション>『幻の柳橋』【1章】昭和37年夏。花火が、なくなる。②

【1】―②

昭和12年を最後に戦争で中断していた両国川開きの花火大会は、23年、11年ぶりに復活した。それは柳橋花柳界の、戦後最盛期の幕開けでもあった。戦争をはさんでの5,6年は花柳界もなりを潜めていた時代である。戦時色が濃くなるにつれ料亭の営業時間も徐々に短縮され、派手な宴会は自粛。芸者の着物も地味になり、ついに昭和19年3月、警視庁は酒屋やバーなどと共に全国の料亭、待合、芸者屋を閉鎖。日本中の花柳界の灯が消えた。

終戦直後の20年10月に料亭や芸者屋の営業が再び許可されると、疎開していた芸者たちも戻りはじめ、花柳界は急激に賑わいを取り戻す。新橋の東をどりが23年に再開、赤坂をどりが24年に開始したのは、花柳界復活を世の中にアピールする十分な効果があったが、それと前後しての花火の開催だった。

続きを読む <フィクション>『幻の柳橋』【1章】昭和37年夏。花火が、なくなる。②

<フィクション>『幻の柳橋』【1章】昭和37年夏。花火が、なくなる。①

 

【1】―①

「そうだ、千代ちゃん、今朝の新聞見たかい?」

週刊誌をめくっていた柳橋芸者の吉矢(きちや)が、何を思い出したのか面長の顔をつと上げ、髪を結う千代子の顔を目の前の大きな鏡ごしに見た。眉間の皺が心なしか深くなっている。

「いえ、今朝はなんだかばたばたしていて読んでおりませんの。何か書いてありました?」

「今年は中止だってさ」

「は?」

「花火だよ、川開きの花火。今年は中止だって書いてあったわよ。交通事情のためだとかって。なんだか寂しいわねえ」

忙しく動き続けていた櫛を持つ千代子の手が、初めて宙で止まった。

続きを読む <フィクション>『幻の柳橋』【1章】昭和37年夏。花火が、なくなる。①

<山形・七日町>山形市の誇り。歴史的建造物と芸妓と舞子

120畳の大広間に映える、山形芸妓とやまがた舞子

「のゝ村」広間にて(1996年11月取材。『夫婦で行く花街 花柳界入門』より。撮影・中川カンゴロー)

●1996年(平成8年)、念願の「山形舞子」が誕生した

*1998年(平成10年)発行 拙著『夫婦で行く花街 花柳界入門』(小学館)より抜粋(下線部)

山形市内の花街・七日町は、最近、急に活気づいてきた。

料亭のご主人や財界が中心になって10年間準備を進めてきた「山形舞子」が平成8年6月に誕生したのだ。

6人の「舞子さん」が無事お披露目を果たすことができたのは、小蝶(こちょう)姐さんの指導によるところが大きい。

「私たちが先輩から教わってきた芸の中には『紅花摘み唄』のように山形独特のものもあるんです。そういう伝統的な踊りを舞子さんたちに引き継いでもらいたくて、一生懸命教えました。座り方も知らなかった子が3か月で踊れるようになったんですから、みんな頑張ったんですよ」

続きを読む <山形・七日町>山形市の誇り。歴史的建造物と芸妓と舞子

<花柳界入門>マナーとコツ⑥畳の上で「素足」は厳禁

何はさておき、きれいな靴と靴下を。

三社祭2015 芸者衆足下

「あなたが持っているいちばんいい靴と、新しい靴下を履いて来なさい。もしなければ買いなさい」――。花柳界に40余年通い続けているある旦那衆は、お座敷遊びの初心者に心得を尋ねられると、まずこう答えるのだそうです。

料亭に行くとき、最も気を遣わなければならないのは足もと。なぜなら、言うまでもなく、料亭のお座敷は「靴を脱いで上がる世界」だからです。

続きを読む <花柳界入門>マナーとコツ⑥畳の上で「素足」は厳禁

<花柳界入門>マナーとコツ⑤お座敷遊びにふさわしい服装

目安は〝ふだん着より少し上〟で、小ぎれいな服

★浴衣でお座敷遊び 

料亭でのお座敷遊びに何を着て行ったらいいのか迷う人も少なくないようです。あくまでも「遊び」――料理とお酒をいただきながら、芸者衆の踊りを見たり、会話を楽しんだり、ゲームで遊んだりする場なので、堅苦しい服装や、かしこまった格好をする必要は全くありません。

とはいえ、あまりにくだけすぎた格好では浮いた存在になってしまう危険も――。料亭のお座敷は、隅々まで掃除が行き届き、季節の花が活けられ、貴重な掛け軸や絵や書が飾られた心地よい状態で、お客さんを待っています。そこに足を踏み入れ、身を置くにふさわしい、ある程度きちんとした小ぎれいな服装が望ましいと思います。

居酒屋に行くのとは違う、多少の緊張感をもって〝ふだん着よりも少し上〟の感覚で着ていくものを選ぶと、自分自身も周囲も違和感なく、心置きなく楽しめるのではないでしょうか。

続きを読む <花柳界入門>マナーとコツ⑤お座敷遊びにふさわしい服装