<フィクション>『幻の柳橋』【3章】川と芸者と柳橋。①

柳橋【3】―①

どの花柳界にもそこが栄えた背景や人が集まる理由、地の利というものがある。新橋が鉄道と銀座と歌舞伎座、赤坂が海軍と国会議事堂と官公庁、浅草が吉原と浅草寺と芝居小屋、神楽坂が路地と文士と早稲田大学だとすれば、柳橋は隅田川である。

座敷に居ながらにして川を眺められ、川風に吹かれることを売りにできる花柳界は東京では珍しい。

河岸っぷちの料亭は専用の桟橋を川に張り出していた。夏、客は料亭に着くと内風呂で汗を流してから店の浴衣に着替える。船宿に手配した舟が桟橋に横付けされると、客は芸者とともに桟橋から直接川に下りて舟に乗り、思い思いに川遊びを楽しんだ。多くの客が好んだのは、川を上り、蔵前橋、吾妻橋、言問橋をくぐって向島方面に向かい、言問団子や桜餅などを土産に買って帰るコースだった。再び座敷で芸者相手に料理と酒を嗜んでいると、新内流しを乗せた舟が通りかかる。芸者が窓から顔を出し「お兄さん、お願い」と声をかけると、流しは窓の下に舟を進め、一曲披露する。「ありがとう」と芸者が窓からポンと投げ落としたおひねりを、流しは見事に掴み取るのだった。客が帰るころになると、先ほど脱いだ汗まみれのシャツがきれいに洗濯されてアイロンをかけられた状態で差し出される。

このように座敷の中で味わえる情緒もさることながら、この花柳界の素晴らしさは、料亭の立ち並ぶ様が一枚の絵画のような風景を作り上げ、一般大衆の目にも恩恵を与えていたことである。隅田川と神田川、二つの川に接する柳橋の人々が「河岸っぷち」といえば隅田川沿い、「川っぷち」といえば神田川沿いを意味した。

両国橋を東に渡りきったところで後ろを振り返れば、対岸・柳橋の河岸っぷちに、それぞれ凝った造りの重厚な料亭が20軒ほど立ち並ぶのを見渡すことができた。それはややゴツゴツとした細く長い帯となって、川と空の二つの長い帯の境界線を成していた。それ以外、余計な人工物はいっさいない。夕暮れ時、空の色が灰紫から濃紺に変わるころ、障子にぽつりぽつりと灯が入り、川面に揺れる様などは、見慣れているはずの住人でさえ思わず足を止めるほどであった。

「いいかい? 神田川の注ぎ口の角にあるのが亀清楼、そこから北へ、柳光亭、柳水、津久松、はやし、卯の木、子安、深川亭、松の湯……ここは通称六角湯、銭湯だよ。湯船は八角なんだけどなぜかみんなこう呼ぶんだ……、それから総武線の鉄橋を超えて、鶴の家、をぎの、いな垣、西ざは、寄代中、晴柳、井筒、俵家、書画骨董の万八……本物は万に八つしかないからだっていうけど、本当かどうかは知らないよ……、田中家、そして蔵前橋だ」

などと、柳橋っ子はよそ土地から来た人に、南から北へ順に河岸っぷちの料亭の名前を誇らしげにそらんじてみせた。

このような川の恩恵を、柳橋は江戸時代から戦後しばらくまで、思う存分享受していたのである。

(続く)

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