「<東京花柳界>取材記」カテゴリーアーカイブ

<フィクション>『幻の柳橋』【3章】川と芸者と柳橋。②

柳橋【3】―②

柳橋花柳界の発生は江戸時代中期といわれる。隅田川は当時、大川と呼ばれており、舟遊びは江戸時代初期からすでに盛んで、川沿いの水茶屋が行楽客の休憩所としてにぎわっていた。大川は、春の花見、夏の納涼、秋の月見、冬の雪景色と、一年をとおして人々を飽きさせることはなかった。

川の存在を基盤として、柳橋が一流の花柳界として発展を遂げるきっかけとなった江戸時代の出来事を三つ挙げることができる。 続きを読む <フィクション>『幻の柳橋』【3章】川と芸者と柳橋。②

<フィクション>『幻の柳橋』【3章】川と芸者と柳橋。①

柳橋【3】―①

どの花柳界にもそこが栄えた背景や人が集まる理由、地の利というものがある。新橋が鉄道と銀座と歌舞伎座、赤坂が海軍と国会議事堂と官公庁、浅草が吉原と浅草寺と芝居小屋、神楽坂が路地と文士と早稲田大学だとすれば、柳橋は隅田川である。

座敷に居ながらにして川を眺められ、川風に吹かれることを売りにできる花柳界は東京では珍しい。 続きを読む <フィクション>『幻の柳橋』【3章】川と芸者と柳橋。①

<フィクション>『幻の柳橋』【2章】戦前。柳橋芸者の髪を結う日々。②

芸者影20 2【2】―②

お鯉は、柳橋を渡った両国広小路側の米沢町という江戸時代からの芸者町に住んでおり、いつも朝六時ころ髪を結いにやってきた。士族の出で姿かたちも気風も良く、品のある顔立ちで、二十代ながらいっぱしの芸者の貫禄を持ち合わせていた。

真冬の早朝はまだ暗く、寒さに手先も思うように動かない。鏡の前に座ったお鯉は、ぎこちない手つきで髪をほどく千代子に、「おじょうちゃん、手が冷たいだろ、禿で温めな」と言う。千代子は「はい」と小さな声で返事をし、かじかむ手をお鯉の後頭部の10年玉大の禿に当ててその体温をしばらくの間、奪い取らせてもらうのだった。「温まったかい? それじゃあ頼むよ」の言葉を合図に、千代子は髪を梳き始めた。

お鯉は、自害という壮絶な死に方で千代子の心に強く印象づけられた芸者でもある。 続きを読む <フィクション>『幻の柳橋』【2章】戦前。柳橋芸者の髪を結う日々。②

<フィクション>『幻の柳橋』【2章】戦前。柳橋芸者の髪を結う日々。① 

芸者影20 2【2】ー①

千代子がこの土地で一番、東京でも指折りと評判の高い綿引結髪所に見習いで入ったのは昭和8年、数えで15のときだった。

花柳界全盛時代である。東京市内15区すべてに、少なくとも1か所、多いところでは3か所の花柳界が存在し、その数約30。さらに隣接する市街の20花街を加え、合わせて東京50花街の中に芸者8000名、娼妓5200名がひしめいていた。

中でも柳橋は、等級でいえば一等地の甲。「新柳二橋」という言い方があるように、新興地の新橋と伝統の柳橋をもって東京の代表的花街とするのは誰もが認めることであり、他に一等地の甲に赤坂と日本橋、一等地の乙に芳町と烏森をあげるのが妥当なところだった。

綿引結髪所は千代子のような若い見習いを20数名抱えた大きな店である。

続きを読む <フィクション>『幻の柳橋』【2章】戦前。柳橋芸者の髪を結う日々。① 

<フィクション>『幻の柳橋』【1章】昭和37年夏。花火が、なくなる。③

【1】―③

3時、最初の一発が上がると、河岸の桟敷、川面の舟、料亭の座敷、川沿いのビルのベランダや屋上、橋の上とあらゆる場所から嬌声が上がる。芸者たちは舟から舟、桟敷から桟敷へと忙しくお酌をしながら回る。客に連れてこられたよそ土地の姐さん方もたくさん混じっている。よく見れば、柳橋芸者とは着物の色柄や帯の結び方が微妙に違う。

暗くなるにつれ、花火も鮮やかさを増し、7時半、呼び物の仕掛け花火が始まると歓声もクライマックスだ。名城シリーズだった去年の仕掛け花火は熊本城、名古屋城、大阪城が色とりどりの楼閣となって浮かび上がった。一昨年は皇太子ご成婚を祝う連獅子と東京タワー、オリンピック開催が決定した年には五輪の花火が人々の瞼に焼きついた。

続きを読む <フィクション>『幻の柳橋』【1章】昭和37年夏。花火が、なくなる。③

<フィクション>『幻の柳橋』【1章】昭和37年夏。花火が、なくなる。②

【1】―②

昭和12年を最後に戦争で中断していた両国川開きの花火大会は、23年、11年ぶりに復活した。それは柳橋花柳界の、戦後最盛期の幕開けでもあった。戦争をはさんでの5,6年は花柳界もなりを潜めていた時代である。戦時色が濃くなるにつれ料亭の営業時間も徐々に短縮され、派手な宴会は自粛。芸者の着物も地味になり、ついに昭和19年3月、警視庁は酒屋やバーなどと共に全国の料亭、待合、芸者屋を閉鎖。日本中の花柳界の灯が消えた。

終戦直後の20年10月に料亭や芸者屋の営業が再び許可されると、疎開していた芸者たちも戻りはじめ、花柳界は急激に賑わいを取り戻す。新橋の東をどりが23年に再開、赤坂をどりが24年に開始したのは、花柳界復活を世の中にアピールする十分な効果があったが、それと前後しての花火の開催だった。

続きを読む <フィクション>『幻の柳橋』【1章】昭和37年夏。花火が、なくなる。②

<フィクション>『幻の柳橋』【1章】昭和37年夏。花火が、なくなる。①

 

【1】―①

「そうだ、千代ちゃん、今朝の新聞見たかい?」

週刊誌をめくっていた柳橋芸者の吉矢(きちや)が、何を思い出したのか面長の顔をつと上げ、髪を結う千代子の顔を目の前の大きな鏡ごしに見た。眉間の皺が心なしか深くなっている。

「いえ、今朝はなんだかばたばたしていて読んでおりませんの。何か書いてありました?」

「今年は中止だってさ」

「は?」

「花火だよ、川開きの花火。今年は中止だって書いてあったわよ。交通事情のためだとかって。なんだか寂しいわねえ」

忙しく動き続けていた櫛を持つ千代子の手が、初めて宙で止まった。

続きを読む <フィクション>『幻の柳橋』【1章】昭和37年夏。花火が、なくなる。①

<東京・神楽坂>明治時代の〝山手銀座〟。今は「神楽坂をどり」で窓を開く

昔も今も、坂と路地と石畳に芸者衆が映える町

2015年第33回「神楽坂をどり」プログラムより
2015年第33回「神楽坂をどり」プログラムより

●地形と住人に恵まれ、天災を免れた幸運な花街

*2007年 執筆 拙著 『東京六花街 芸者さんに教わる和のこころ』 (ダイヤモンド・ビッグ社 )より抜粋(下線部)

昭和初期、「花街の中に山あり谷あり」「あたかも玩具箱(おもちゃばこ)をひっくりかえしたような感じ」(『全国花街めぐり』昭和4年発行。松川二郎著)と描写された神楽坂花柳界(別称・牛込花柳界)。その隠れ家的な雰囲気は、花街として大きな魅力だった。

戦災で町が焼け、開発でビルが建っても、地形は残る。だから今も神楽坂は、花街らしい風情を残し、坂と路地と石畳に芸者が映える町だ。

続きを読む <東京・神楽坂>明治時代の〝山手銀座〟。今は「神楽坂をどり」で窓を開く

<東京・八王子>花柳界を舞台の「地域発ドラマ」、置屋で撮影開始。NHKBSプレミアム

八王子ならではの〝花柳界物語〟、今秋放映予定。

仮のチラシ。詳細は番組HPを参照ください。
仮のチラシ。詳細は番組HPを参照ください。

●「八王子まつり」での舞台・「宵宮の舞」がクライマックス?

ここ15年ほどの間に、若い芸者衆が増え、途絶えていた花街の行事も復活し、若手が新たな置屋を開業するなど右肩上がりで勢いを増している八王子花柳界。昨年3月には念願だった第一回「八王子をどり」の開催も実現しました。

東京の多摩地区で唯一残るこの花街は最近、新聞・雑誌はもとより、八王子を紹介するテレビ番組では必ずといっていいほど取り上げられ、全国的な知名度も少しずつ上がってきています。

2015年4月13日にはNHKBSプレミアム「TOKYOディープ!」で八王子芸者衆の日常と仕事が紹介されましたが、この度、八王子花柳界を舞台としたドラマ「東京ウエストサイド物語」の制作が決定。先日、キャストが発表され、歌手で八王子観光大使でもある北島三郎さんの出演も話題になっています。

今週から置屋「ゆき乃恵」での撮影が開始。放映は今秋予定とのこと。

続きを読む <東京・八王子>花柳界を舞台の「地域発ドラマ」、置屋で撮影開始。NHKBSプレミアム

<東京・芳町>「芸者とお座敷遊び体験」。毎月第2土曜日開催(日本橋・橋楽亭)

外国人も見ず知らずの人も意気投合。お座敷に一体感を生むゲーム

芳町イベント投扇興

●投扇興。落ちた「蝶」に湧き上がる歓声

2015年6月13日(土)、日本橋三越前の商業ビル「コレド室町3」3階の和室「橋楽亭(きょうらくてい)」に、わーっと沸きあがった歓声と大きな拍手。両手を挙げて喜びを全身で表すのはフランス人男性の観光客。芳町(よしちょう)の芸者衆がもてなす「芸者とお座敷遊び体験」で行われたゲーム、「投扇興」の一コマです。

投扇興は、二人で交互に扇を飛ばして木製の台の上の駒(蝶という)を落とし、点数を競い合う優雅なお座敷遊び。江戸時代に遊興場や酒席の遊びとして大流行しました。

投扇興点数表アップ正式には、落ちた扇と蝶の位置関係(銘という)に応じて点数が決められ、銘にはそれぞれ源氏物語の巻の名がつけられています。右図のような珍しい銘は点数が高く、とくに奇跡的ともいえる「夢浮橋」「篝火」には50点の最高得点がついています。

続きを読む <東京・芳町>「芸者とお座敷遊び体験」。毎月第2土曜日開催(日本橋・橋楽亭)