<東京・神楽坂>明治時代の〝山手銀座〟。今は「神楽坂をどり」で窓を開く

昔も今も、坂と路地と石畳に芸者衆が映える町

2015年第33回「神楽坂をどり」プログラムより
2015年第33回「神楽坂をどり」プログラムより

●地形と住人に恵まれ、天災を免れた幸運な花街

*2007年 執筆 拙著 『東京六花街 芸者さんに教わる和のこころ』 (ダイヤモンド・ビッグ社 )より抜粋(下線部)

昭和初期、「花街の中に山あり谷あり」「あたかも玩具箱(おもちゃばこ)をひっくりかえしたような感じ」(『全国花街めぐり』昭和4年発行。松川二郎著)と描写された神楽坂花柳界(別称・牛込花柳界)。その隠れ家的な雰囲気は、花街として大きな魅力だった。

戦災で町が焼け、開発でビルが建っても、地形は残る。だから今も神楽坂は、花街らしい風情を残し、坂と路地と石畳に芸者が映える町だ。

江戸時代の寛政の改革で、牛込行願寺(現在の神楽坂5丁目)門前にあった岡場所が取りつぶされ、近辺に料理屋や芸者屋ができ始めた。これが発展し、明治初期に花柳界として成立したといわれる。

そういえば、ここは昔から人の集まる町だった。

坂の上下に「牛馬車止」の標識が置かれたのは明治20(1887)年頃。神楽坂は歩行者天国のさきがけ、夜店発祥の地であり、〝山手銀座〟と呼ばれた東京一の繁華街だった。町が賑わえば花柳界も栄える。ごった返す人ごみをかきわけながら急ぐ、お座敷姿の芸者衆――神楽坂ならではの光景だ。

近くに早稲田大学があり、坪内逍遥、尾崎紅葉、泉鏡花、夏目漱石、永井荷風など作家も多く住んでいたことから、文士の町、学者の町とも呼ばれた。中でも泉鏡花は、芸者桃太郎との同棲のいきさつをもとに『婦系図』を著すなど花柳界との縁が深い。

さらに、関東大震災の被害が奇跡的に少なかったことが、この町にさらに賑わいをもたらした。壊滅的打撃を受けた下町の老舗や名店が神楽坂に移り、それまで以上に活気あふれる町となった。

神楽坂はん子が『ゲイシャ・ワルツ』を大ヒットさせたのは、昭和27年(1952)。鶯芸者ブームが起きた。しかし、あれほど流行った数々のお座敷ソングがぱったり流れなくなったのは、昭和40年代に入ってからだったろうか――。

平成11(1999)年、しばらく途絶えていた神楽坂芸者衆の舞踊の会が、「華の会」として再開した。100人で満席の小さな会場からのスタートだったが、9年目の平成19(2007)年、名称をかつての「神楽坂をどり」に戻すまでに定着させることができた。

地元のNPO法人も一般の人に花柳界を知ってもらおうと芸者衆を町なかに担ぎ出し、さまざまなイベントを始めた。トークショー、踊り、お座敷ゲーム……どれも毎回満員御礼。地元と花柳界の距離も縮まった。

今、神楽坂は時の運をとらえたかもしれない。

*平成19(2007)年現在、料亭8軒。芸者衆30名

●今の神楽坂花柳界 2015

神楽坂通りにはためく「神楽坂をどり」の旗が人々の目を引く
神楽坂通りにはためく「神楽坂をどり」の旗が人々の目を引く

東京神楽坂組合主催の「「神楽坂をどり」は毎年4月(原則として第1土曜日)、1日3回公演で続けられ、平成24(2012)年の第30回公演から新宿区地域文化財にも認定された。花柳界は新宿区の財産であると認められたわけである。

今年(平成27年)は第33回公演。神楽坂通りと本多横丁に初めて「神楽坂をどり」の旗が掲げられ、街並みを華やかに彩った。地元の人々や観光客に花柳界をいっそう身近に感じてほしいとの、花街側の気持ちの表れだという。

「神楽坂をどり」は、神楽坂花柳界が1年に1日、一般の人々に向けて、大きく開く「窓」である。芸者衆の踊りを間近に見る楽しみ、幕間にはロビーで菓子や茶や小物など限定のお土産を買う楽しみ。よそ土地の芸者衆や料亭さんも訪れ、会場は花街同士の貴重な交流の場にもなる。

今年来た人は「また来年も来よう!」と、今年来られなかった人は「来年こそは来よう!」と、1年後の楽しみが生まれる。1日だけの限られた開催だからこそ、「神楽坂をどり」を毎年開くことの意味は大きい。

*公演の回数は、「神楽坂をどり」の前身である「第1回牛込さつき会」(昭和38年。於明治座)から数えての通算)

*平成27(2015 )年現在、料亭4軒、芸者衆20名

お知らせ・平成28年の「神楽坂をどり」は組合の都合で開催が中止となった。

©asahara 文章・写真の無断転載禁止