<西日本・X花街> 芸者・りんものがたり➄ 悲喜こもごも、戦前のお座敷

芸者・りんものがたり➃より続く

●大金持参で4日も5日もお茶屋に居続ける

りんは15歳で半玉(はんぎょく。半人前の子どもの芸者)になった。裾を引いた振袖の着物にぽっくりを履いた姿は京都の舞妓に見紛うが、後ろ姿を見れば違いは一目瞭然だ。帯を舞妓の特徴である〝だらりの帯〟ではなく、ふつうにお太鼓か蝶々に結んであるからだ。この世界の仁義として〝京都真似〟はできなかった。

戦前のX町で羽振りのいい客といえば、なんといっても山持ち――山林地主の材木屋だ。とくにXの檜は質が良く高値で売れた。材木屋の社長が商談のために番頭を連れて山を下りて来る。一本の木が売れればごっそり儲かる。厚い現金の束を腹巻の中へごっそり入れて、「これで遊ばせてくれや」とX町のお茶屋へやってくる。

「番頭さんに仕事をさせて、その間、親方(社長)は4日も5日もお茶屋に居続けるんや。そこで酒飲んで、私らみたいな半玉を4人も5人も呼んで、〝お前たち、寿司でもうどんでも好きなもの食べろ〟言うて、ご馳走してくれはる。その間、ずっと玉代もつけてくれはるんや。私らが〝もう疲れた。お化粧落として着替えて来たい〟と言うと、〝よしわかった。30分たったら戻って来いよ〟。それからまた居続ける。ごっつう儲けるさかい、なんぼ遊んでもお金は残るんやね」

●明日死んでいく若者に、どうしてあげたらよかったのか

戦時中は兵隊相手のお座敷が多くなった。海軍、陸軍それぞれに贔屓の料理屋があり、りんは海軍が好んで使った料理屋Tに呼ばれることが多かった。

りんが忘れられないのは、若い特攻隊員の姿だ。上官が「この者は明日飛行機に乗って死んでいく。今日が最後だから思う存分に飲ませてやってくれ」と連れてくるのだ。

「まだ二十歳そこそこの若者や。可哀想だと思っても、向こうは覚悟して来ているわけだから、こっちもそんな感情を見せることはできへんやろ。だからできるだけふつうに……、ふつうのお客さんとして接したけどな。どうしてあげたらよかったのか……」

自分の境遇ではなく、特攻隊員の話をしたときに初めて、りんの声が沈んだ。

昭和19年に置屋、料理屋が全国一斉に営業停止になると芸者たちも仕事がなくなり、実家に帰る者、旦那に身請けをされる者など、それぞれの身の処しかたをする。行く宛てのないりんはそのまま置屋に残り、朝9時から夕方5時までは勤労奉仕。機械工場で働き、置屋に戻ると、ときどき兵隊のお座敷にお酌をしに出向いた。

玉音放送は置屋で聞いた。

何を言っているか理解できず、大人たちが「戦争が終わったんだと……」と話すのを聞いて、もう工場に行かなくてもいいんだな、くらいの気持ちでたいして感慨はなかった。それよりも、「放送が終わったら1時間もしないうちに、大きなぼた餅を売りに来たよ。それまで闇で売っていたのをおおっぴらに売りに来た。あるところにはあるもんや、とびっくりしたよ!」

りんはまだ、終戦という出来事が、ぼた餅と結びついて記憶されるくらいの、ほんの子どもだったのだ。

芸者・りんものがたり➅へ続く

©sumiasahara 禁・文章&写真の無断転載 (写真と本文は無関係)