<西日本・X花街> 芸者・りんものがたり➂ 「おいしいご飯を食べさせてもらえるで」

芸者・りんものがたり②より続く

●かつての役割を失っても、建物は残った

X花街の存在は、すぐ近くに有名な花街があるためだろうか、昔からあまり知られていなかった。大正から昭和にかけての全盛期でも「芸妓置屋19軒、芸妓135名」と比較的小規模な花街なのである。しかし2.3分も歩けば回りきれてしまうほどの小さな一画にそれだけの人数の芸者がいたことを想うと、狭さが逆に密度の濃さと活気を想像させる。

昭和40年代半ば以降、芸者の高齢化と減少が一気に進む。昭和62年に置屋5軒、芸妓30人。平成26年に置屋2軒、芸妓3,4人。花街としての活気は失われて久しいが、実はX花街ほど昔の町並を失わずに残している街は全国でも珍しい。明治・大正時代に建てられた町屋が、置屋や料亭をとうの昔に廃業しても外観をほぼそのまま残して静かに並んでいるのである。

近隣の他県に生まれ育った10歳のりんが昭和14年に連れて来られた置屋も、当時のまま建物が残っている。それだけに、りんの話は生々しく私の中にしみ込んできた。

●行くか?と言われて、「ほな、行くわ」。

子どものりんは、母の泣く姿をよく見ていた。父親は極道だったとの言葉から察するに、家計が逼迫した原因は博打だったかもしれない。

「母親に、おいしいご飯を食べさせてもらえるで、赤い可愛らしい着物も着せてもらえるで、行くか?と言われて、喜んで『ほな、行くわ』言うた。子どもだから事情も何もわからへん。紹介人に連れられて来てすぐに、あ、ここは芸者さんの家やな、とわかった。親にだまされたようなもんや。だからといってどうも思わへん、子どもやから。5年の年季やったと思う」

年季が明けるまでは丸抱えのことが多く、稼ぎは全部置屋の主人の収入になる代わりに、食事、着物、稽古代からこまごまとした身の回りの必要品まですべて主人持ちだ。

りんの置屋はX花街で二番目に大きく、23、4人の芸者を住み込みで抱えていた。「おちょぼ」と呼ばれる芸妓見習いの子はりんを含め4人。出身地もまちまちで、たまたま同じ置屋で寝起きを共にすることになった同年代の女の子たちは、暗黙の了解のように相手を詮索しない。

「どんな事情でここに来たか。そんなことはお互いに聞かしまへんで。好きで芸者になった子もいたやろし、いろいろや」

芸者・りんものがたり➃へ続く

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