<石川・金沢>もうすぐ「金沢おどり」③。芸妓・峯子さんを想う――負けず嫌い

第12回金沢おどり 2015年9月19日(金)~22日(火)

芸妓として残るのは、芸事に一生懸命な子だった

大正11年建築の金沢西料亭組合事務所(検番)
大正11年建築の金沢西料亭組合事務所(検番)

●芸は身を助く。「ねえや」のはずが芸妓に

金沢では芸妓見習いの女の子を「たあぼ」という。東京の「仕込みっ子」、京都の「おちょぼ」と同じで、置屋に住み込み、姉芸妓の身の回りの手伝いや使い走りの雑用など下働きをしながら芸事を習い、お披露目に備えるのである。ところが、峯子さんの奉公先に決まった置屋「今照(いまてる)」の親方は、そもそも芸妓見習いではなくお手伝いの「ねえや」のつもりで受け入れたのだった。その理由を峯子さんはこう語る――「器量が悪いから芸妓さんとしてはものにならないと思われたがや」。 続きを読む <石川・金沢>もうすぐ「金沢おどり」③。芸妓・峯子さんを想う――負けず嫌い

<石川・金沢>もうすぐ「金沢おどり」②。芸妓・峯子さんを想う――お茶目

第12回金沢おどり 2015年9月19日(金)~22日(火)

元気の源はしゃべること・食べることだ、と笑った

にし茶屋街のお茶屋「美音(みね)」
にし茶屋街のお茶屋「美音(みね)」

●人々を惹きつける、飾らない人柄

峯子さんの魅力の一つは、肩書や役職から想像する堅いイメージと、お茶目で飾らない実際の人柄との大きなギャップにある。その素顔を惜しげもなく全国にさらけ出した番組が2011年10月に放映されたNHK「にっぽん紀行『金沢芸妓ふたり』」だ。「一調一管」のコンビ――笛の峯子さんと小鼓の乃莉さん(同じにし茶屋街の芸妓でお茶屋「明月」の女将)が、「金沢おどり」本番に向けて演奏を完成させていく姿を密着取材したドキュメンタリー番組である。 続きを読む <石川・金沢>もうすぐ「金沢おどり」②。芸妓・峯子さんを想う――お茶目

<石川・金沢>もうすぐ「金沢おどり」①。芸妓・峯子さんを想う――別れと出会い

第12回金沢おどり 2015年9月19日(金)~22日(火)

北陸新幹線開業の、その日に逝った人

峯子さんうちわ●最後の「一調一管」は優しく聞こえた

2015年3月14日、北陸新幹線開業のまさにその日、金沢にし茶屋街の芸妓でお茶屋「美音(みね)」の女将、峯子さんが突然、逝った。藤舎秀扇の名をもつ笛の名人でもあり、小鼓の乃莉さんと2人で奏でる「一調一管」は高い評価を得、「金沢おどり」の人気演目の一つだった。昭和2年生まれ、享年87歳。朝までお元気だったそうだから、楽しみに待っていた新幹線開業を伝えるテレビニュースを見ることはできたのではないかと想像している。

昨年の9月20日、「第11回金沢おどり」公演後に楽屋を訪ね、「来年は新幹線で見に来ます」と言ったのが面と向かった最後だった。 続きを読む <石川・金沢>もうすぐ「金沢おどり」①。芸妓・峯子さんを想う――別れと出会い

<東京・八王子>「八王子まつり」。芸者衆、夜空の下で「宵宮の舞」

「ゴザの舞台、テープの曲、3人の踊り」から13年

八王子まつり 宵宮の舞 (2015.8.7)
八王子まつり 宵宮の舞 (2015.8.7)

●東京が一番暑かった日、芸者衆は幻想的な舞台にいた

東京が37.7度の今夏最高気温を記録した8月7日は、八王子まつりの初日。恒例の人気行事・芸者衆の「宵宮の舞」に行ってきました。開宴20分前に会場の中町広場へ着くとそこはすでに人だかりが……。舞台前に敷かれた桟敷は満席、三重四重の立ち見の人々はみるみる膨らみ、警備の警官がロープを張って通り道の確保のために声を張り上げていました。 続きを読む <東京・八王子>「八王子まつり」。芸者衆、夜空の下で「宵宮の舞」

<花柳界入門>マナーとコツ⑧踊りの間はおしゃべりは控えて

ノリのいい曲なら手拍子や合いの手も大歓迎

2015浅草・三社祭 芸者衆の組踊観賞のお座敷より
2015浅草・三社祭 芸者衆の組踊観賞のお座敷より

料亭で行われる2時間ほどの一般的な「お座敷遊びの会」は、「乾杯→歓談→踊りの披露→歓談→お座敷ゲーム→歓談→〆の踊り→お開き」といった順序で進んでいくことが多いようです。芸者衆がお座敷遊びの途中で披露する舞踊を「お座つき」といい、動詞では「お座敷をつける」といいます。

タイミング的には、会席料理が先付、前菜、吸物と一品ずつ順に運ばれ、刺身が出たころでしょうか。地方(じかた=三味線・唄などの演奏方)のお姐さん用に赤い毛氈が敷かれ、三味線の音合わせが聞こえてきたら、「そろそろお座敷をつけましょう」の合図です。 続きを読む <花柳界入門>マナーとコツ⑧踊りの間はおしゃべりは控えて

<フィクション>『幻の柳橋』【5章】平成11年。惜しまれながら、潔く。②(完)

「柳橋新聞」昭和33年7月15日発行より
「柳橋新聞」昭和33年7月15日発行より

【5】―②

多くの人が、柳橋花柳界衰退の原因は川の景観が失われたことだと言う。それが柳橋の魅力を損ねたことは否めない。しかし、本当にそれだけなのだろうか。柳橋がそれほどまで川に依存しきった花柳界だったはずはないのだが。

「もう少し柔軟だったら、生き残れたのでは……」と、千代子は未練がましくも思うのだった。芸者になるための試験が難しくて合格できず、新橋や赤坂に流れた子たちが、その土地で売れっ妓になったと聞いた。浅草の市丸、赤坂小梅、神楽坂はん子が次々とレコードデビューし、鶯芸者として人気者になる中、柳橋は、芸者が二足のわらじを履くことを許さず、芸者か歌手かの二者択一を迫った。料亭は最後の最後まで敷居を下げることなく、一見さんお断りを守り通した。

融通の利かない、頑固な花柳界――。それが柳橋の生き方だったのだろう。 続きを読む <フィクション>『幻の柳橋』【5章】平成11年。惜しまれながら、潔く。②(完)

<フィクション>『幻の柳橋』【5章】平成11年。惜しまれながら、潔く。①

「柳橋新聞」昭和33年7月15日発行より
「柳橋新聞」昭和33年7月15日発行より

【5】―①

「いな垣さん、とうとう閉めたそうですよ」

吉矢の芸者置屋を継いだ吉栄からそう聞いたとき、櫛を持つ千代子の手が止まった。吉矢が膝を痛めて座敷に出られなくなり、芸者を廃業して姉の住む郊外に引っ込んだとこの妓から聞いたのは、ふた昔以上前だった気がする。この町の重大情報は、いつも鏡ごしに千代子に伝わる。

いな垣は、柳橋で最後に一軒だけ残った料亭である。その店の廃業は、すなわち柳橋花柳界の終焉を意味する。1999年1月、千代子80歳の温かい冬に、柳橋芸妓組合解散。柳橋花柳界は400年の歴史に幕を下ろした。20名ほど残っていた芸者は出先を失い、そのときから「元芸者」になった。 続きを読む <フィクション>『幻の柳橋』【5章】平成11年。惜しまれながら、潔く。①

<フィクション>『幻の柳橋』【4章】昭和37年。変わっていく町。②

柳橋隅田川2【4】―②

遅くやってくる朝は静かで、夕暮れとともに華やかさを帯びる町。しかし、街灯は暗闇を煌々とは照らさずぼんやり灯る、どこか薄暗い町だった。それは、男女の二人連れとすれ違っても、だれなのか顔がはっきりわからない暗さ――この町に必要な、思いやりの暗さだった。

この町の住人は、普段着の芸者の後ろ姿を遠目にするだけで、それが素人ではないと見分けることができた。そんな自分をわかってか、芸者は昼間町を歩くときはあえて目立たないように振る舞うのだが、着こなしや身のこなしの独特な雰囲気は隠せず、周囲に溶け込めずにいるのである。 続きを読む <フィクション>『幻の柳橋』【4章】昭和37年。変わっていく町。②

<フィクション>『幻の柳橋』【4章】昭和37年。変わっていく町。①

柳橋隅田川【4】―①

「はいはい、お世話さま。またよろしく頼むわね」

と、いつもどおりの言葉を残してドアを開け、狭い路地を行く吉矢の背中をいつもより長く、姿が消えるまで見送った千代子は、久しぶりに河岸っぷちの光景を見たくなった。というより見ておかなければいけないような気がして、奥にいた夫に店を頼み、下駄をつっかけて表に出た。

柳橋花柳界は、隅田川と神田川と江戸通りに囲まれた東西200メートル、南北400メートル足らずの長方形の中にある。 続きを読む <フィクション>『幻の柳橋』【4章】昭和37年。変わっていく町。①

<フィクション>『幻の柳橋』【3章】川と芸者と柳橋。②

柳橋【3】―②

柳橋花柳界の発生は江戸時代中期といわれる。隅田川は当時、大川と呼ばれており、舟遊びは江戸時代初期からすでに盛んで、川沿いの水茶屋が行楽客の休憩所としてにぎわっていた。大川は、春の花見、夏の納涼、秋の月見、冬の雪景色と、一年をとおして人々を飽きさせることはなかった。

川の存在を基盤として、柳橋が一流の花柳界として発展を遂げるきっかけとなった江戸時代の出来事を三つ挙げることができる。 続きを読む <フィクション>『幻の柳橋』【3章】川と芸者と柳橋。②