<東京・新橋> 行ってきました「東をどり」① お座敷へと誘う舞台

だから、芸者衆の踊りは踊りを知らなくても楽しめる(2015年5月23.24日)

東をどり プロ組み合わせ明るい

5月23、24日、新橋芸者の舞踊の会「東をどり」(=あずまをどり)を観てきました。今年は第91回目。いよいよ100回公演に向けてのカウントダウン開始です。

〝舞踊の会〟と聞いだたけで「わからない、退屈、難しそう」と敬遠する人が少なくないかもしれませんが、踊りを知らなくても楽しめるのが、芸者衆の踊り。花柳界取材歴こそ長く、各地の会に足を運んでいるけれど、踊りも三味線も(着物すら)嗜まない私自身がそう思うのです。

それはいったいなぜか――。

ひと言でいえば、芸者衆の本質は芸術家ではなくエンターティナーだからです。「もてなしのプロ」である芸者衆には、目の前のお客さんを楽しませたいとの思いが本能的に身についていて、それは、お座敷でなく劇場の舞台であっても発揮される。……というより、芸者衆にとっては劇場も、お座敷と同じもてなしの場なのでしょう。

これが、師匠から弟子へ伝統芸能を継承していくことを使命とする舞踊家・邦楽家と、芸者の大きな違いではないでしょうか。

「これが芸者衆の踊りの楽しさか……」とあらためて感じた今年の「東をどり」でした。

東をどり 看板一幕の『咲競五人道成寺』(西川左近振付)。ふつうは1人(もしくは2人)で演じる白拍子を、なんと5人の芸者衆が踊ります。その名も白拍子花子以下、桜子、梅子、桃子、藤子――。華やかなこと!

若手中心のダブルキャスト。合計10人の白拍子一人一人が主役です。それぞれのご贔屓のお客さんにとっては見ごたえも十二分。芸者衆は、実力の差を〝持ち味〟に変え、今の自分を精一杯、舞台で表現していました。芸者の芸は、誰が上手か、優れているか、などと比べるたぐいのものではない、とあらためて思わせる舞台でした。

まさに〝咲競 (さききそう)〟五人!

私は、芸者衆の踊りの会を観るたびに思い出す言葉があります。2001年に月刊誌『東京人』(都市出版)の仕事で、「浅草をどり・浅茅会」をテーマに浅草花柳界を取材したとき、地元浅草観光連盟の事務局長(当時)が言ったこと――。

「(舞台では、芸者衆)ひとりひとりが〝客席のこのお客さんをお座敷に引っ張ってくる〟っていうつもりで頑張ってほしいよね。芸者なんて知らなかった人が浅茅会を見て、お座敷に行ってみようかなっていう気持ちになったら、すごいよね」 (『東京人』2001年5月号。「六年ぶりの『浅草をどり』 浅草芸者の心意気。」より)

新橋演舞場の舞台に立つ芸者衆も、まさにその意気込みでした。二幕の芸者衆19人が繰り広げる『芸者はるあき』も、芸者衆総出のフィナーレも同じ。ベテラン、中堅、若手、そしてデビューしたての新人が、踊りながら、三味線を弾きながら、唄いながら、「お座敷にいらして……」と誘ってくれているよう――。この際、実力と経験の違いや個性というバリエーションは、むしろ強みだと言わざるを得ません。

これが、振りや歌詞の意味を理解できなくても、〝感じる〟ことのできる芸者の踊りの楽しさではないかと思うのです。

東をどり 出演者

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