<岩手・釜石> 追悼 最後の釜石芸者・艶子さん① 14歳で芸者に。「自分で選んだ道だった」

2016年1月6日、最後の釜石芸者・艶子さん(舞踊名・藤間千雅乃=ふじまちかのさん)が亡くなられた。享年89歳。東日本大震災で家を流され避難所暮らしをする中、国内外のマスコミから注目を浴びることになった艶子さんに、私は八王子芸者めぐみさんとのご縁で出会い、何度か取材の時間をとっていただいた。釜石の避難所で、仮設住宅で、そして東京のホテルで――。昨年、企画中の本に収録しようと書いた文章は結局、陽の目を見ず、私のPCの中に眠ったままだ。追悼の想いをこめて、この場に残したいと思う。

2012年6月 「黒髪」を踊る艶子さん(八王子すゞ香にて)
2012年6月 「黒髪」を踊る艶子さん(八王子すゞ香にて)

●釜石で唯一の料亭・幸楼で実の娘のように可愛がられた

岩手県釜石市。ここに、皮肉にも東日本大震災によってその存在が浮き彫りになり、注目されることになった芸者がいる。最後の釜石芸者、大正15年生まれの伊藤艶子さんだ。

釜石は、明治時代から鉄と魚の町として栄えてきた。昭和初期の花柳界を潤したのも主に日本製鐵(後の冨士製鐵、新日鉄、新日鐵住金)釜石製鉄所を中心とする鉄鋼業や、漁業に携わる人々だった。市内でただ一軒の料亭、明治創業の幸楼は、製鉄所の幹部、東京本社の上層部、地元の会社に芸達者なお偉いさんたちが毎晩のように訪れる格式の高い店。釜石の芸者はすべて幸楼が育て、抱え、幸楼のお座敷を唯一の仕事場とした。いわゆる内芸者の形態で、艶子さんもその一人だった。

「幸楼」で唄う艶子さん(2014年6月) 八王子芸者めぐみさんの三味線で
「幸楼」で唄う艶子さん(2014年6月) 八王子芸者めぐみさんの三味線で

伊藤家の曽祖父は県会議員で大槌町の二代目町長、父親は司法書士という堅い家柄だが、歌舞伎好きの祖母が艶子さんに3歳のころから日本舞踊を習わせたという。父親は接待で頻繁に幸楼を利用し、まだ幼い艶子さんを連れて行くことも多かった。「私にきれいな着物を着せてお座敷の舞台で踊らせるとお客様も喜ばれて。父は芸事は好きではなかったのですが、『小さいのによく踊るなあ』とお客さまから褒められたりすると鼻が高かったんじゃないでしょうか」

昭和15年、その父が病気で倒れた。艶子さんは県立釜石高等女学校を1年の1学期で辞め、数えの14歳で幸楼の芸者になる。すでに踊りの素養が身についていた艶子さんに見習い期間などはなく、翌日から即戦力としてお座敷で踊ったという。当時の思いを艶子さんは次のように語った。

「自分で好んで選んだ道だった。日本舞踊の世界に入ることに何の抵抗もなかった。釜石の芸者さんたちはみんな芸達者だったから、それが好きで飛び込んだ。たしかに親元から離れることはつらかったが、割合あっけらかんとしていたように思う。我慢はなかった。……ただ、私は芸の道に進んでいくんだなという悲壮感のようなものはあった」

釜石で唯一の料亭兼置屋の幸楼にとって、住み込みの若い芸者衆は家族のような存在だ。艶子さんが「本当の娘のように可愛がられた」というのもあながちきれいごとではないだろう。実際、戦前は多くの花柳界で行われていた水揚げのしきたりもなく、「釜石で水揚げといえばサンマのことよ」と艶子さんは笑う。幸楼のすぐ隣には、娼妓を置く福寿楼があった。「遊郭はお客を泊める。料亭はお客を遊ばせる」――建物は隣同士でも客の目的は明確に分かれ、芸者と娼妓の住む世界は一八〇度異なるものだった。

師範の看板は奇跡的に流されなかった
師範の看板は奇跡的に流されなかった

戦後の艶子さんは、芸者というよりもむしろ舞踊家の道を進む。東京から訪れるお客の眼に叶う芸をみにつけるため単身東京に出て、藤間勘十郎の一番弟子・勘紫乃の元へ稽古に通った。昭和30年、藤間千雅乃の名前をいただき、釜石に戻ると自宅に稽古場を作り日本舞踊を教え始める。その後も毎月のように寝台列車で東京に通い、新しい曲を覚えては弟子たちに教え、数えきれないほどの発表会を催した。「何の宣伝もしなくても客席はいつも満員だった」と、踊りの会の思い出を語る艶子さんはいつも満足気だ。そのかたわら、幸楼から「踊り手がいないから手伝ってほしい」と頼まれると、芸者としてお座敷に上がる。そんな毎日を送っていた。

鉄で栄えた花街は鉄とともに衰退する。客層の基盤を失った花柳界が勢いを取り戻すことは難しく、新しい芸者が育つことはなかった。いつしか釜石で芸者と呼べるのは艶子さん一人になり、その艶子さんも芸者としてよりも藤間流の舞踊家として認知されていた。実際、釜石では今でも「お姐さん」ではなく、「先生」と呼ばれることが多い。(続く)

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