<岩手・釜石> 追悼 最後の釜石芸者・艶子さん③ 避難所で八王子に受け継がれた釜石の芸

あの日、避難所の一画が稽古場に変わった。

避難所となった旧釜石第一中学校体育館
避難所となった旧釜石第一中学校体育館

●歩くのも一苦労だったのに、踊るときはなめらかに動く足

2011年6月、八王子芸者のめぐみさんに同行して、釜石旧第一中学避難所に向かった。東北新幹線・新花巻駅で釜石線に乗り継ぎ、東京から片道5時間の長旅。めぐみさんとひと月ぶりの再会を果たした艶子さんは、「うれしくて夕べは寝られなかったのよ。あなたが来るからせめて髪だけは結ってもらったの」とマットレスの上で涙ぐんだ。送られた舞扇を手にすると、座ったままひらひらと舞わせ、上半身だけで踊りだした。日帰りのため、避難所にいられるのはわずか1時間半だ。艶子さんは『釜石浜唄』『釜石小唄』を唄いながら振りを教えた。「面白いのがあるのよ、お座敷でやってごらんなさい。お客さんは喜ぶわよ」と『お富さん』を唄いだすと、もはや座ってなどいられない。震災のショックで足を痛め、歩くのも一苦労だったはずなのに、すっくと立ちあがると、体育館の空きスペースで手拭いを片手に踊り出した。隣でめぐみさんもそれを真似る。ちょうどそのとき、背後に置かれたテレビの画面は国会中継を映し出していた。事故後の対応を追求されて声を張り上げる菅元首相の答弁が『お富さん』に重なる。二人のいるその空間だけが周囲から切り離され、踊りの稽古場になっていた。

7月、今度は置屋の若い芸者衆も一緒に再び釜石へ。仮設住宅に移る人が増え、避難所は前よりも閑散としていた。すぐ近くの仮設住宅から駆けつけた艶子さんは、ひと月前よりだいぶ元気になっていた。今回も日帰りの稽古。時間を惜しみながら、三味線を弾き、唄い、踊り、自分の身についた芸を少しでも多く伝えたい、と、若い八王子の芸者衆に教え続けた。

7月。避難所で八王子の芸者衆に釜石浜唄を教える艶子さん
7月。避難所で八王子の芸者衆に釜石浜唄を教える艶子さん

「芸は津波に流されない」と、艶子さんは何度も言った。稽古をつけているとき、艶子さんは自信に満ちた芸者になる。被災者であることを忘れさせるくらいだ。芸を受け継ぎたいと言ってくれる相手が表れたことが、艶子さんに新たな生きがいを生んだのだろう。芸者にとって芸とは、生きる力に深く関わる大きな存在なのだと思った。

●「米寿で踊りたい」との夢を叶えて

その後も、お互いに釜石と八王子を行き来しながら、両者のつながりは、むしろ深まりながら続く。そして2014年12月、艶子さんは元気に米寿を迎え、八王子から芸者衆を中心とする応援団が釜石を訪れた。市内に開店したばかりのショッピングセンター・イオンのイベント会場で、艶子さんと八王子芸者衆が踊りを披露。夜は「幸楼」のお座敷で賑やかに「祝う会」が開かれた。

3年半前、艶子さんが避難所で「米寿のお祝いで、みなさんの前で踊るのが夢なの」と語ったとき、私は正直なところ、その姿を思い描くことができなかった。もしも八王子芸者衆との出会いがなかったら、関係がここまで深く長く続かなかったら、米寿で踊る艶子さんの姿を見ることができただろうか、と思うことはある。                   (続く)

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