<京都・上七軒>名妓・勝喜代さん②。西陣で栄えた花街に生まれて

元芸妓の母、西陣の父の反対を押し切って

第59回北野をどりプログラム(平成23年)。
第59回北野をどりプログラム(平成23年)。

●華やかな祇園、しっとり落ち着く上七軒

上七軒は京都五花街の中でも最古といわれ、菅原道真公を祀る北野天満宮の近くに位置する花街だ。この少し珍しい名前は、室町時代、火事で一部を焼失した北野社(現在の北野天満宮)の修造作業中に残った材料で、七軒のお茶屋が建ったことに由来し、花街として成立したのは江戸時代初期と伝えられている。

京都を中心に各地の花柳界を研究している経営学者・京都女子大学現代社会学部教授の西尾久美子先生(私に勝喜代さんを引き合わせてくれた方である)は、著書『おもてなしの仕組み』の中で、五花街の雰囲気にはそれぞれ特徴があり、地元京都の人々はその違いを次のように言い表すと述べている。

「伝統と格式の祇園町、よその人を接待するんやったらここやなぁ」
「粋な先斗町、自分で遊ぶんやったらここやなぁ」
「気楽に楽しめる宮川町、ゆっくりくつろぐならここやなぁ」
「しっとり落ち着く上七軒、京都の人をお連れするならここやなぁ」

上七軒が〝しっとり落ち着く〟背景には、その場所も関係しているだろう。祇園は八坂神社付近、すなわち京都駅から北東方面に約2㎞の場所にあり、鴨川沿いの先斗町と宮川町も近く、ここらあたりは国内外からの観光客でにぎわう京都一の繁華街である。

一方、上七軒はというと京都御所の西方、京都駅を起点とすると北北西に約5㎞と、五花街の中でここだけがぽつんと離れている。京都駅から辿り着くまでにかかる時間の長さと引き換えに、ここには静けさがある。五花街にそれぞれの良さがあり好みもあるが、ある地元の花街通が「華やかなのは祇園。あちこち回って、最後に戻ってくるのは上七軒」と言った。なるほど……とうなづけた。

●お茶屋のお嬢さんが、舞妓で出られなかった理由

北野をどりチラシ

上七軒といえば西陣、である。日本を代表する織物・西陣織の産地に近いことから、上七軒は江戸時代から西陣の旦那衆の遊び場、接待の場、社交場として発展し、潤った。

戦前戦後の織物業最盛期には、「〝西陣村字上七軒〟というくらい、西陣との結びつきは深かったんどす」と語る勝喜代さんは昭和3年元旦生まれ。母は上七軒の元芸妓で父は西陣の旦那衆だ。娘が芸妓になりたいといったとき、母は「そんな簡単な仕事とちがう。やめとき」といい、父は自分たちが贔屓にする花街に娘が芸妓で出るのは「かなわん、あかん」と、それぞれの立場から異なる理由で反対した。両親をどのように説得したのか?と尋ねても、勝喜代さんは、「いややー、出たいー、言うたんや」と冗談ぽく答えるだけだったが、いずれにしても数えの16で母親のお茶屋「大ゆき」から芸妓で出ることになった。

借金とは無縁のいわゆるお嬢さん芸妓――。ふつうであれば当然、舞妓から芸妓へ、という道を辿ったはずだが、時代が悪かった。戦時下で質の良い材料が手に入らず、満足なだらりの帯(帯の先端を膝裏にかかるくらいに長く垂らす舞妓特有の帯)を作ることができなかったのである。おひざ元・上七軒の舞妓を粗末な帯で出すなど、西陣の沽券にかかわる、ということだったのだろう。勝喜代さんは舞妓にならず、16になるのを待って最初から芸妓でお披露目をしたのだった。

京都の花街で生まれ、華やかで可愛らしい姿の舞妓さんを身近に見ながら育った女の子が、舞妓で出られないことは相当悔しかったに違いない……と想像はしたが、勝喜代さん独特の、感情を露わにしない早口のしゃべりから心情を感じ取ることはできなかった。(続く)

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