<東京・日本橋> 「日本橋花柳界が華やいだころ」(『東京人』7月増刊)を執筆しました。

古き良き戦前の「日本橋花柳界」。貴重な証言を取材

『東京人』2016年7月増刊 八重洲・日本橋・京橋を楽しむ本 
『東京人』2016年7月増刊 八重洲・日本橋・京橋を楽しむ本

●東京駅八重洲口――かつての「檜物町」に花柳界があった

花柳章太郎の出世作となった新派の舞台『日本橋』(泉鏡花原作)でも有名な日本橋花柳界。江戸時代の文化文政期(1804~30)にはすでに栄えていたとされる、東京の中でも古い花街だ。

現在の住所でいえば、東京都中央区八重洲一丁目。東京駅八重洲中央口を出て立ち、左前方を見る。外堀通りを挟んで大丸百貨店の向かい側一帯が、その昔、日本橋花柳界のあった場所である。

昭和3年まで残っていたかつての町名を冠して「檜物町(ひものちょう)芸者」と呼ばれた日本橋芸者は、深川芸者の流れを汲み、また、当時日本橋にあった魚河岸関連の人々が多く訪れたことも影響してか、意気と張りを受け継ぐ芸達者な江戸芸者の代表として、明治・大正・昭和の初めにかけて存在感を発揮しつづけていた。

昭和20年3月の二度にわたる東京大空襲で日本橋は壊滅。戦後、町の風景だけでなくかつて住んでいた人々も元に戻ることは少なかったという。昭和31年に花柳界の組合は解散。八重洲口は再開発によりビル街に生まれ変わり、かつての花街情緒を見出すことは難しい。

●「割烹や満登」三代目ご主人の大切な思い出

「東京人」7月増刊 八重洲・日本橋・京橋を楽しむ本104~109ページ
104~109ページに掲載

半世紀以上前の日本橋花柳界を記憶する古老も数少なくなった。その中の貴重なお一人が、明治35年創業以来、日本橋花柳界の中心的存在であり、今も同じ場所で営業を続けている「割烹や満登(やまと)」三代目主人・成川孝行さん(昭和5年生まれ。85歳)だ。

「や満登」の店と住居スペースは同じ敷地内にあったが、区別は厳重で、出入りする門も別だったという。成川さんは、「子どもは絶対に店に顔を出してはいけない」との厳しい言いつけを守って過ごしながらも、さまざまな花柳界の〝気配〟を感じていた。昭和初期、日本橋の一流料亭の中では、どれほど優雅でぜいたくな時間が流れていたか――。(店内にお客用の風呂場があり背中を流す番頭さんまでいたという……)。成川さんは、記憶の中から大切な思い出をたくさん引っ張り出してくれた。

●記事に書けなかったこと。兵隊さんと「電気湯」

スペースの関係で記事には書くことのできなかった成川さんのお話から、印象的だったものをここに二つ、紹介したいと思う。

<兵隊さんの捧げ筒> 戦時下、「や満登」は接収され、陸軍・内地鉄道司令部の宿舎として使われていた。この重要な場所を守るため、門の両側には常時、門番の兵隊さんが二人、銃を持って立っていたという。司令部のお偉方が来ると、敬意を表し、捧げ筒をして迎えるのだ。

当時、門が別にあっては不用心ということで家族用の門は閉鎖され、出入り口は一つだった。「なので、私も兵隊さんが立っている門から家に入っていました。門をくぐろうとすると、兵隊さんが私にパッと捧げ筒をするんです。まだ中学生の私に、敬意を表して(笑)。……きっと面白がって、なんでしょうね」(成川さん)。緊張感高まる戦時下の、ほほえましいエピソードだった。

<通称「電気湯」> 戦前、現在の八重洲通りと外堀通りの交わる角に「電気湯」という銭湯があった。これは通称で、正式名称は「前田湯」だという。なぜ「電気湯」なのか……。「大きな浴槽と小さな浴槽がありまして、小さい方には銅板が貼ってあって電気を流すんです。ごく微量なんですが電気が通っていますからね、湯に足や手を入れるとビリビリビリビリとしびれてくるんですよ。それでみなさん『電気湯』と呼んでいました。お年寄りには〝体がぎゅーっと伸びてマッサージよりいい〟と評判でした」(成川さん)。

*記事では、他に、八重洲一丁目町会長で元うなぎ割烹「星重」の府川利幸さん(78歳)、榮太樓総本舗相談役・六世細田安兵衛さん(88歳)にも、日本橋花柳界の思い出を語っていただいた。

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