<京都・上七軒> 名妓・勝喜代さん①。お座敷で生まれる〝持ち芸〟

流行歌に合わせて即興で踊る名人芸

芸者影22

●浅草の元芸者・富千代さんの数々の持ち芸

芸者の芸には〝〇〇姐さんの持ち芸〟ともいうべき個人的な芸がある。一代限りで消えていくものも多く、師匠から弟子へ、先輩から後輩へ受け継がれる伝統芸能とは異なる究極のお座敷芸だ。常連客との気の置けない小座敷でこそ活きる芸、舞踊家には望むべくもない芸であり、お座敷遊びの醍醐味の最たるものといえるかもしれない。

すでに現役を引退されたが、浅草の富千代さんは数々の持ち芸でお座敷を沸かせた芸達者な芸者さんだった。今から40年ほど前になるだろうか、お座敷にバンドが入りはじめ小唄・端唄よりも歌謡曲に馴染みのあるお客が増えたころ、「どなたもご存知の曲で私が踊れば楽しいのではないか」と、流行歌に合わせて踊ることを考えたという。

「あるお客さまが、誰か『九段の母』を踊れないか?とおっしゃったとき、思わず〝私に踊らせて!〟と手を上げて、即興で踊ったのが始まりなんです。今思えば私も若かったから無茶だったんですね。そうしたらお客さまが面白い!と喜んでくださったので、お師匠さんにお願いしてきちんと振りつけていただきました」

他にも『古城』『男の土俵』『下町育ち』などレパートリーは増えた。それは芸者のサービス精神かと思いきや、少し違うようだ。「私も一緒になって楽しませていただくんです。こちらが何かを押し付けてはいけませんから、お客さまのご希望に沿いながら、お客さまと一体になってパッと〝乗る〟んです。……笑いがあったほうがいいですもの、お座敷は。しんみり飲んじゃうと悪酔いしちゃいますよ」

やがて富千代さんは、小道具も駆使して持ち芸をますます進化させていく。お客さんが「軍歌を歌うぞ!」となれば、板場から鍋と籠、帳場から箒を借りて来る。鍋を頭にかぶり籠を背負って、箒を持ち、さらにお客さんのズボンを借りて裏返しに穿き(どういう状況なのか今ひとつ不明。ズボンを貸したお客さんには代わりにひざ掛けを渡したという……)、「ここはお国の何百里~」。『愛染かつら』では割烹着を白衣に見立てて看護婦になる。「そういう三枚目の役は年増の担当なんです。このようなものを一つやって、ワッと盛り上がれば、あとのお座敷は若い芸者衆が華やかに盛り上げてくれますから」

実に楽しそうではないか。その芸が後輩に受け継がれることはないのだろうか――。「継ぐ、というたぐいのものでもないんですね。決まった振りがあってないようなものですし、その場の気分や乗りで、勢いでやるものですから」

多くは、「これ、出来ないか?」「やってみましょうか!」と馴染み客と勢いよく掛け合う中で即興で生まれ、やがて定番の持ち芸となり、お座敷を盛り上げる奥の手としても使われるようになる。全国どこの花柳界にもそんな「〇〇姐さんにしか出来ない名物芸」は存在し、その大半は持ち主の引退とともに消え、お客の記憶の中の存在となる。

●京都・上七軒の名物芸妓 勝喜代さん

上七軒の花街舞踊「北野をどり」(2011年)
上七軒の花街舞踊「北野をどり」(2011年)

京都にも、持ち芸を数多くもつ伝説の名物芸妓がいた。祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町と並ぶ京都五花街の一つ、上七軒の芸妓・勝喜代さんだ。五花街最高齢の立方の芸妓として生涯現役を貫いたが、残念なことに今年(2016年)1月21日、88歳で亡くなられた。私は、2010年から2年間取り組んだ三菱財団の助成研究で戦前を知る現役芸妓のライフヒストリーを記録する中、知人の口添えで勝喜代さんを数回取材し、まさに名人芸と呼べる数々の茶利舞(ちゃりまい)を撮影・記録することができた。

お会いした回数は決して多くないが勝喜代さんと過ごした濃密な時間のことは強く印象に残っている。勝喜代さんは、縁あって出会えたことを心から幸運だったと思える名妓の一人である。(続く)

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