<岩手・釜石> 追悼 最後の釜石芸者・艶子さん② 津波が流したもの、運んできたもの

2か月ぶりにお座敷に呼ばれていた、まさにその日の地震
艶子さんが約3か月半過ごし旧釜石一中避難所
艶子さんが約3か月半を過ごした旧釜石一中避難所

2011年3月11日は、2か月ぶりに幸楼のお座敷に呼ばれていた日だった。久しぶりのお座敷がうれしくて、昼前に髪結いを済ませ、近所の小料理屋「火の車」から届いた鯖の味噌煮で軽い腹ごしらえをしようとした矢先の、揺れ。「最初はゆらゆらゆらと弱かった。逃げ場を確保するためにすぐに部屋を飛び出して玄関の戸をを開けた。揺れが止まった、と思ったら、次の揺れは大きかった、ぐらぐらぐら」

昭和8年の三陸津波を経験していた艶子さんの決断は早かった。「これはただ事ではない。津波が来る。逃げなければ」。でもその前に、ふと頭をよぎったのは「ご飯」のこと。「そうだ……家に戻ってきたときにご飯が食べられないと困る」と台所に走り、炊飯器のスイッチを入れようとしたその瞬間、電気が切れ、艶子さんの腰も抜けた。

「そういうときは馬鹿力が出る。萎えた足でどうにかこうにか戸につかまりながら外に出たら、誰かが私を負ぶって坂を上がってくれた。 負ぶさっていた私の手に陽が当たって、何かがキラキラキラキラ光る。……あれ、なんだろうと思って見たら、指輪が三つもはまってる。びっくりしたわよ、なに、この手!って。自分ではまったく覚えていないのに、いつもの指輪のほかにオパールと真珠の指輪をはめていたんです。……でも本当に不思議、どうしてこれを選んだのか。執着があったわけじゃないのよ……だってダイヤの指輪は流しちゃったんだもの」

こうして艶子さんは、財布の入った真っ赤な巾着袋と無意識にはめた指輪以外ほとんど着の身着のまま、旧釜石第一中学校体育館へ辿りついた。財布にはいつも一万円札と仙寿院の御守を入れていた。「この御守さんのおかげで助かったの」と艶子さんは言う。ダイヤの指輪を失った悔しさより、御守が残った嬉しさのほうが大きかったに違いない。

仮設住宅に移るまでの三か月半、この体育館のマットレスが艶子さんの家となった。

避難所から100メートルほど海岸よりの交差点角にあった自宅は、二階の床すれすれまで津波が遅い、三味線、着物、帯、足袋、扇子、帯留めなど大切な商売道具の大半が流され、あるいは泥をかぶり、使い物にならなくなった。しかも津波は四つ角だったその場所で渦を巻き、どこからか飲み込んで来た自動車や折れた信号機をガレキと共に一階部分に押し込んで、海へと引いていった。その中には悲しいことに人の体も……。

2011年6月、町にはまだ津波の後が生々しく残っていた
2011年6月、町にはまだ津波の後が生々しく残っていた

艶子さんは、今まで三度の津波と艦砲射撃を経験してきたが、今回ほどつらい思いをしたことがないという。「心までつぶされたような気がしました。いちばんつらいのは私を大事にしてくれた若い人たちがたくさん死んだこと」と、姪っ子と同級生の呉服屋の息子さん、肉屋のご子息、料理屋さん、飲み屋の若旦那、司法書士の奥さん……と亡くなった知り合いの名前を次々と挙げた。

震災直後から避難所には国内外のマスコミが大勢訪れ、状況を紙面や画像で伝え始めた。不思議なのは、着の身着のまま逃げて来た84歳の艶子さんに記者たちが注目したことだ。隠しきれない芸者のオーラ、なのだろうか。艶子さんは「最後の釜石芸者 負けてたまるか」などの見出しでその存在を紹介され、取材の度に受け取る記者たちの名刺は束になった。

思いがけない出来事が降ってきたのは4月の終わりごろだった。釜石市役所から「東京の芸者さんが伊藤さん(艶子さんの苗字)に三味線を届けに来たいと言っている」と連絡が来たのだ。それは、新聞報道で初めて艶子さんの存在を知った東京・八王子の芸者・めぐみさんという人だった。

5月1日、まだ鉄道が不通だったため、八王子から車で長時間かけて釜石に辿りついためぐみさんと数人の芸者衆が避難所を訪れ、初対面の艶子さんに三味線を手渡す。「東京からわざわざ……。救いの神だと思った。神様は私を見放さなかった……」。その日から、二人を軸に、釜石と八王子、二つの花柳界の芸の交流が始まった。艶子さんの体が覚え、頭が記憶しているたくさんの芸を継ぐ芸者が、釜石にはもういない。「私たちに艶子おねえさんの芸を受け継がせていただけないでしょうか」と申し出ためぐみさんに、艶子さんは「お役に立つのであれば、どうぞお使いください」と答えた。

(続く)

お知らせ①  艶子さんと八王子芸者めぐみさんの出会いに着想を得た映画「フクシマ・モナムール」(桃井かおりさん出演。ドリス・デリエ監督)が2月13日(日本時間14日)ベルリン映画祭で上映されました。めぐみさん、八王子芸者の菜乃佳さん、見習いのくるみさんも役者として出演されています。めぐみさん、菜乃佳さんからは、昨年5月に行われた福島・南相馬での感動的な撮影の話を伺っており、後日ご紹介したいと思います。また、映画の完成を大変楽しみにされていた艶子さんでしたが、1月6日、残念ながら、上映を待たずに逝かれてしまいました。

2011年7月避難所で芸を受け継ぐ
2011年7月避難所で芸を受け継ぐ

お知らせ② 3月1日(火) 赤坂まちづくり研究会第2回シンポジウム「花街と街つくり」にて、浅原が、釜石・艶子さんと八王子芸者衆の避難所での交流に同行取材し、制作したDVD「芸は津波に流されない。」(7分程度)を上映予定です。

 

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