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<西日本・X花街> 芸者・りんものがたり④ 「ここで生きていかな、しゃーない」

芸者・りんものがたり➂より続く

●唯一、子供らしさを取り戻すとき

たった4人で姉芸者20数人の世話をするのだから、おちょぼは忙しい。三味線を出先の料理屋に運び、お座敷が終わったら置屋に持って帰ってくる、姉芸者の脱いだ着物を畳んで箪笥に収める、足袋などこまごました日用品の買い物、部屋の掃除など仕事は山ほどある。

姉芸者には絶対服従だ。「この畳み方はあかん! やり直し!」と箪笥の引き出しにしまったばかりの着物を引っ張り出されて、床に放り投げられても文句はいえない。 続きを読む <西日本・X花街> 芸者・りんものがたり④ 「ここで生きていかな、しゃーない」

<西日本・X花街> 芸者・りんものがたり➂ 「おいしいご飯を食べさせてもらえるで」

芸者・りんものがたり②より続く

●かつての役割を失っても、建物は残った

X花街の存在は、すぐ近くに有名な花街があるためだろうか、昔からあまり知られていなかった。大正から昭和にかけての全盛期でも「芸妓置屋19軒、芸妓135名」と比較的小規模な花街なのである。しかし2.3分も歩けば回りきれてしまうほどの小さな一画にそれだけの人数の芸者がいたことを想うと、狭さが逆に密度の濃さと活気を想像させる。

昭和40年代半ば以降、芸者の高齢化と減少が一気に進む。昭和62年に置屋5軒、芸妓30人。平成26年に置屋2軒、芸妓3,4人。花街としての活気は失われて久しいが、実はX花街ほど昔の町並を失わずに残している街は全国でも珍しい。明治・大正時代に建てられた町屋が、置屋や料亭をとうの昔に廃業しても外観をほぼそのまま残して静かに並んでいるのである。 続きを読む <西日本・X花街> 芸者・りんものがたり➂ 「おいしいご飯を食べさせてもらえるで」

<西日本・X花街> 芸者・りんものがたり② 「昔のことはもう話したくない」

芸者りんものがたり➀より続く

●タイミングが合わず、4年のブランクが

しばらくたってから「覚えていますか? また話を聞かせてください」と手紙を出すと、「X町へぜひ来てください。お待ちしています」と返事が来た。頃合いを見て電話をすると、体調がよくないので暖かくなってからにしてほしいという。 続きを読む <西日本・X花街> 芸者・りんものがたり② 「昔のことはもう話したくない」

<西日本・X花街> 芸者・りんものがたり➀ 「今度生まれても、また芸者になりたいな」 

●芸者の「芸」の意味を教えてくれた人

花柳界の現実は厳しい。毎晩のようにお座敷がかかり、何軒もの料亭をはしご。帰宅して帯を解けばバラバラとこぼれ落ちるご祝儀袋を拾い上げ、中身も確かめずそのまま神棚へ。たまには休みたいわ……とぼやきながら働きつづけた時代は、せいぜい昭和30年代までだ。 続きを読む <西日本・X花街> 芸者・りんものがたり➀ 「今度生まれても、また芸者になりたいな」 

<北海道・小樽> 小樽最後の芸者・喜久さんを想う➄。来ないお客をいつも待っていた

喜久さんを想う➃より続く

●「この電話は、現在使われておりません」

思い出のいっぱい詰まった「おたるむかし茶屋」(2011年撮影)

平成24年10月、久しぶりに「おたるむかし茶屋」に電話をした。いつものように電光石火の早業で出るかと思いきや、聞こえて来たのは「現在使われておりません」の予期せぬメッセージ。

――悪い予感がした。 続きを読む <北海道・小樽> 小樽最後の芸者・喜久さんを想う➄。来ないお客をいつも待っていた

<北海道・小樽> 小樽最後の芸者・喜久さんを想う➃。「おたるむかし茶屋」で毎晩、何を思う

喜久さんを想う➂より続く

●目にもとまらぬ速さで受話器を取る

「おたるむかし茶屋」(2010年撮影)

喜久さんとは不思議と年賀状のやりとりが続いた。必ずひと言、「たまにはお顔見せてください」「お会いしたいですね」「お立ち寄りください」などと書き添えてある。が、小樽は遠い。

たまに電話をかけると、ベル音が鳴ったか鳴らないかくらいの驚くべき速さで「もしもし」と元気な声が聞こえる。いつかけても、必ずそうだった。「電話に出るの、速いねー」「そお? ひまだからさ」。「お客さんは?」「来なくていいんだ、昔さんざん働いたから」。何度、同じやり取りを繰り返しただろうか。

初対面から11年後の平成22年、再び「おたるむかし茶屋」を訪れるチャンスがやって来た。 続きを読む <北海道・小樽> 小樽最後の芸者・喜久さんを想う➃。「おたるむかし茶屋」で毎晩、何を思う

<北海道・小樽> 小樽最後の芸者・喜久さんを想う➂。「海陽亭」に刻まれた歴史と栄華

喜久さんを想う②より続く

●華やかなりし名料亭――北の迎賓館「海陽亭」

海陽亭玄関(2011年撮影)

喜久さんの昔話に頻繁に登場する料亭が、明治創業の「海陽亭(かいようてい)」だ。小樽港を見下ろす高台に建つ木造二階建ての建物は昭和60年に小樽市の歴史的建造物に指定され、平成27年まで冬場を除き営業を続けた。

小樽の繁栄を象徴する建物であり、明治39年に小樽で行われた日露戦争後の樺太国境画定会議の後、両国の軍人など約60名が集まり大広間で大宴会が開かれるなど、「北の迎賓館」としての役割を果たし続けた。 続きを読む <北海道・小樽> 小樽最後の芸者・喜久さんを想う➂。「海陽亭」に刻まれた歴史と栄華

<北海道・小樽> 小樽最後の芸者・喜久さんを想う②。「北のウォール街」で栄えた花街

喜久さんを想う➀より続く。

●JR函館線ガード下で聞いた、小樽芸者のむかし話

小樽駅全景(2011年撮影)

「おたるむかし茶屋」を初めて訪れたときのことはよく覚えている。平成11年、今のうちに戦前の花柳界を知る高齢芸者の話を聞いておこうと思い立ち、以前から気になっていた喜久さんに会いに就航直後のエアDOで北海道に飛んだ。

三月初めの小樽は、まだ真冬の荒天続き。1メートル先も見えない猛吹雪に遭遇し、私は生まれてはじめて(しかも町なかで)遭難の危険を感じた。 続きを読む <北海道・小樽> 小樽最後の芸者・喜久さんを想う②。「北のウォール街」で栄えた花街

<北海道・小樽> 小樽最後の芸者・喜久さんを想う➀。「芸者になんて、もうなりたくない」。

●2017年10月、小樽最後の芸者逝く

小樽在住の知り合いから、小樽芸者・喜久さんの訃報が届いたのは、2017年10月22日のことだった。何度も足を運んだ「おたるむかし茶屋」の店内と、喜久さんの姿がありありと思い出された。

●「芸者になんて、もうなりたくない」と言った人

「おたるむかし茶屋」(2010年撮影)

わきまえ、奥床しさ、つつましさといった「芸者」から私が連想する単語を書き並べていると、頭に浮かんでくる北の光景がある。小樽駅から歩いて約10分、花園町にある和風小料理屋「おたるむかし茶屋」のカウンター内で、ひとり目をつぶり、正座をしてラジオを聞いている小樽芸者の喜久さんだ。

喜久さんは大正13年生まれ。戦前の花柳界を知る各地の高齢の芸者衆の話と姿を記録する仕事の中で、「生まれ変わっても芸者になりたいか」との質問に、ただ一人はっきりと「芸者なんて、もうなりたくない」と答えた人だった。 続きを読む <北海道・小樽> 小樽最後の芸者・喜久さんを想う➀。「芸者になんて、もうなりたくない」。

<東京・新橋> 新橋芸者と「狂言」。「なでしこの踊り 早春2019」より

●まさか「なでしこの踊り」で「狂言」が見られるとは!

さすが、全国の芸者衆から一目置かれる「芸の新橋」だ。「なでしこの踊り」で若手芸者衆の「狂言」が見られるとは思わなかった。 続きを読む <東京・新橋> 新橋芸者と「狂言」。「なでしこの踊り 早春2019」より