<北海道・小樽> 小樽最後の芸者・喜久さんを想う②。「北のウォール街」で栄えた花街

喜久さんを想う➀より続く。

●JR函館線ガード下で聞いた、小樽芸者のむかし話

小樽駅全景(2011年撮影)

「おたるむかし茶屋」を初めて訪れたときのことはよく覚えている。平成11年、今のうちに戦前の花柳界を知る高齢芸者の話を聞いておこうと思い立ち、以前から気になっていた喜久さんに会いに就航直後のエアDOで北海道に飛んだ。

三月初めの小樽は、まだ真冬の荒天続き。1メートル先も見えない猛吹雪に遭遇し、私は生まれてはじめて(しかも町なかで)遭難の危険を感じた。

当時、小樽花柳界はだいぶ寂しくなっており、芸者は3人、出先の料亭は2軒。平成元年に5人の芸者で始めた「おたるむかし茶屋」も実質、喜久さんが1人で切り盛りし、実姉の愛さんが週に何日か札幌から手伝いに来ていた。

店はJR函館線のガード下にある。ときおりゴーという列車音に遮られながら、もう喜久さんしか語ることができなくなった戦前・戦中・戦後の小樽花柳界の話を聞き続けた。

●花柳界も栄えた戦前の「北のウォール街」明治・大正時代に海運で大繁盛した港町・小樽は、昭和30年代に札幌に経済の中心を奪われるまで、道内一の商都として大いに栄えた。有名企業の北海道支店が小樽に次々と進出し、銀行の立ち並ぶ駅前のメインストリートについた呼び名は「北のウォール街」。景気が良ければ料理屋が賑わう、芸者が流行る。昭和初期には市内の4つの見番(芸者衆や料亭を統括する花柳界の事務所)があり、約300人の小樽芸者が毎晩忙しく働いていた。

喜久さんは大正12年、7人きょうだいの3番目に生まれ、小学校を卒業した昭和12年に小樽の芸者屋の養女になった。当時、子沢山の家が女の子を養女に出すのはごく普通のことだった。とくに、踊りを習っていた喜久さんは、日本舞踊の師匠や学校の教師から「欲しい」と引く手あまただったという。

「小樽で踊りを教えている人がいるから行かないか、と言われて行ってみたらそこが芸者の家だったのさ」。抱えっ子ではなく養女に迎え入れられたのは、この子はいい芸者になると見込まれたからだろう。喜久さんの友だちで同じように芸者屋の養女になった子も、日本舞踊を習っていた。まさに芸は身を助く、である。

もちろん恵まれた芸者ばかりではない。なかなか売れずに借金がかさみ、樺太へ、そして満州へと住み替え、そのまま帰ってこない芸者もいたという。

喜久さんを想う➂に続く。

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