<東京・新橋>変わりゆく花柳界。「なでしこの踊り」② 新橋「東をどり」改革とは

➀より続く

●戦後、国民的大行事となった新橋「東をどり」

〝芸の新橋〟として全国の花柳界から一目置かれる新橋花柳界。今までの取材の中でも東京各地の芸達者な年配の芸者衆が「〝新橋さんに追い付け追い越せ〟を合言葉にお稽古をがんばっている」という話をよく耳にした。その新橋芸者の芸を世間一般に披露する場が、年に一度の「東(あずま)をどり」(東京新橋組合主催の花街舞踊公演)だ。

大正14年、新橋演舞場の杮落しで始まった「東をどり」は、戦後まもなく、まり千代という大スターを生み、国民的大行事となった。楽屋口にはまり千代見たさに出待ちの女学生が群がり、某演劇評論家は「科学の力で男性から女性に転向可能なら、われわれはまず新橋芸者になりたい」とまで書いた。現在、新橋花柳界を代表する複数のベテラン芸者衆からは、「東をどりのまり千代姐さんにあこがれて新橋芸者になった」という話も聞いた。昭和20年代後半から40年代前半まで春・秋2回公演(各25日公演)が行われ、連日超満員の大盛況だったのである。

第83回東をどりプログラムより(平成19年)

その内容の素晴らしさを、新橋の料亭「米村」主人の故・藤野雅彦氏はかつてこう語っている。「歴史をたどってみると、舟橋聖一先生、谷崎潤一郎先生、吉川英治先生、折口信夫先生、川口松太郎先生、横山大観先生、小倉遊亀先生、前田青邨先生……実に錚々たる重鎮の方々が、東をどりのために新作を書き下ろしてくださり、美術を担当してくださり。いうなれば日本の舞台芸術の大変な歴史を東をどりが刻んで来たともいえるわけです。」(拙著『東京六花街』より)

●2007年「東をどり」大改革決行!

昭和から平成にかけての時代の変化は、新橋花柳界にも訪れた。昭和50年には約250名を数えた新橋芸者も平成8年には半分に、同19年には70名まで減少。将来に大きな危機感を持った組合幹部は、時間的余裕の持てない時代、通客が第一線を退きつつある時代に対応すべく、平成19年、「第83回東をどり」を機に改革に着手した。

改革の目玉は二つ。一つ目は、芸事に詳しくない人でも楽しめる内容に変更したこと。一回の公演時間を短くして三幕二回公演から二幕三回公演に、舞踊劇を休みご祝儀もの(おめでたい曲)と、賑やかで軽い曲を集めた「お好み」で構成した。もう一つは食を楽しむ要素を加えたこと。新橋六料亭・食の競演「東をどり弁当」を販売し、同じ献立でそれぞれが持ち味を生かした弁当を作り、お客さんは観劇の前後に地下食堂で味わった。

「東をどり弁当」平成19年

芸術鑑賞というよりもお楽しみの要素を強く打ち出した「東をどり」は、広く一般の人々に新橋芸者の存在を知らしめることに大きく貢献した。こうして、客席から見る舞台上の新橋芸者衆はより身近になった。

……しかし、宴席でのおもてなしを受けるとなると、新橋芸者は一般的にはまだまだ遠い存在のままだった。

●そして、ついに「なでしこの踊り」が始まった

そして、平成26年、私たちが新橋芸者衆をより身近に触れ合うことのできる新しい試みがついに始まった。新橋演舞場地下食堂を料亭の座敷に見立て、料亭のお弁当と、芸者衆の踊り、お座敷ゲーム、写真撮影が楽しめる「なでしこの踊り」である。

➂に続く

*第94回東をどり 5月24日(木)~27日(日)一般販売4月中旬予定

©sumiasahara