<北海道・小樽> 小樽最後の芸者・喜久さんを想う➂。「海陽亭」に刻まれた歴史と栄華

喜久さんを想う②より続く

●華やかなりし名料亭――北の迎賓館「海陽亭」

海陽亭玄関(2011年撮影)

喜久さんの昔話に頻繁に登場する料亭が、明治創業の「海陽亭(かいようてい)」だ。小樽港を見下ろす高台に建つ木造二階建ての建物は昭和60年に小樽市の歴史的建造物に指定され、平成27年まで冬場を除き営業を続けた。

小樽の繁栄を象徴する建物であり、明治39年に小樽で行われた日露戦争後の樺太国境画定会議の後、両国の軍人など約60名が集まり大広間で大宴会が開かれるなど、「北の迎賓館」としての役割を果たし続けた。

戦前・戦後、海陽亭には喜久さんの所属していた見番・昭和本店所属の芸者が主に呼ばれた。そこの芸者が一流揃いだったからである。繊維、ゴム、石炭、酒、木材……道内外から小樽に買い付けに来た商人を地元の業者が接待する宴会が毎晩のように開かれ、芸者衆が呼ばれた。芸者衆は一つの料亭の中でいくつもの座敷を行き来し、夏は人力車で、冬は橇で料亭から料亭へと走り回った。

「戦前の銀行の支店長さんがたは芸達者な方が多くて、小唄をやったり三味線を弾いたり。仕事が終わるといったん家に帰って、紋付き袴や着物に着替えてからお座敷に来るんだから、優雅だー。宴会が終われば芸者衆を連れて必ず二次会、三次会。だから私たちが家に帰るのは毎晩12時過ぎだったのさ」

●豪快に遊んだ〝どんちゃんのおじさん〟

「海陽亭」にて、石原裕次郎氏と喜久さん(真ん中)。(海陽亭展示の写真より)

戦後まもなく、石原慎太郎・裕次郎兄弟の父、石原潔氏が山下汽船小樽出張所に赴任し、海陽亭を贔屓にしたのは地元では有名な話だ。まだ若手だった喜久さんもその豪快な遊びを覚えていた。

「会社の人をたくさん連れて毎度、海陽亭に遊びに来ていた。私は下っ端だったからお酒を運ぶくらいだったけど、立派な姐さんたち(芸者衆)をたくさん呼んで、どんちゃんどんちゃん騒ぐから〝どんちゃんのおじさん〟というあだ名だったよ」。後年、裕次郎氏もたびたび海陽亭を訪れている。

大広間の提灯(2011年撮影)

働きづめの毎日の中で楽しみといえば、ご贔屓のお客が連れて行ってくれる旅行だ。3,4人の芸者を連れて、定山渓、支笏湖、阿寒湖などへ繰り出す。昼間は観光、夜は宴会。芸者衆にとってはもちろん玉代のつく〝仕事〟だ。

旅先の中でも喜久さんがひときわ懐かしそうに名前を出したのが、小樽北方の石狩湾に面したオタモイ海岸と、その断崖絶壁に立つ料理屋「龍宮閣」。――夕日の沈む景色が素晴らしかったよ……と、そこが昭和27年の火災で焼失してしまったことをとても残念そうに語った。

*「海陽亭」の最新情報はこちらを参照。

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喜久さんを想う⓸に続く。