<東京・浅草>現役最高齢芸者・96歳ゆう子さんを偲ぶ➂

● 雄々しい、奥床しい、嫋やか、気高い

私が、それまで全く縁もゆかりも、興味もなかった「芸者」という人を初めて取材したのは、平成6(1994)年だった。当時百一歳の現役芸者、柳橋の蔦清小松朝じ(つたきよこまつ・あさじ)姐さんである。

以来、各地の芸者さんを取材するうちに、他のどの職業とも似ていない独特の「芸者らしさ」というものを、全国どこの芸者さんも共通に、そして芸歴が長いほど強く持ち合わせていることに気がついた。

――「雄々しい、奥床しい、嫋やか、気高い」(すなわち、勇ましくて潔くさっぱりしている、深い心づかいがある、しなやかでしとやかで美しい、気品がある)――。
これは、二〇世紀最後の大晦日に私がたまたま見ていたテレビ番組で、「日本人がこの百年の間になくしてしまったもの」として映し出された四つの言葉。なんとそれらは、私が今まで出会ってきた芸者衆にそのまま当てはまる形容詞だった。

今のうちに高齢の芸者衆の話を聞いておきたい――、と戦前から出ている全国の芸者衆を取材してインタビューをさせていただき、時には映像を記録に収めた。柳橋・朝じ、静岡・志郎、吉原・みな子、浅草・ゆう子、小樽・喜久、長崎・梅奴、釜石・艶子、金沢・峯子、奈良・千賀、京都・勝喜代、神楽坂・雅子、神楽坂・千代子、浅草・保名、盛岡・都多丸、新潟・小その……(敬称略。順不同)。

また、大坂南の冨田屋(とんだや。南地大和屋と並び称された高級茶屋。戦災で焼失)で仲居をしていた大阪北新地・鶴太良の大女将さん、柳橋の髪結い・荒井良子さん、料亭や置屋の息子さん、各地の旦那衆……など、芸者衆以外の方々にも出来る限り話を聞いた。

今はもう鬼籍に入られた方がほとんどだ。

ゆう子さんは、その中でも最も多くの時間を割いて話を聞いた一人である。今から6年前(2013年)に、ゆう子姐さんの卒寿(90歳)を祝う会に私が寄せた文章を、以下に紹介する。

● 「浅草ゆう子さんの卒寿を祝う会」に寄せて)

「本物と恩人と誇り。」 2013年2月24日 文・浅原須美

 ゆう子姐さんは、昭和初期から戦中戦後を経て平成の今に至る激動の時代を、芸者の道ひとすじに生きてきた。

 それがどれほど大変なことか――。

 淀みなく語られる昔話からは、わずかの苦労しか垣間見ることができない。そもそも、花柳界で七〇年、八〇年と生きてきた芸者という職業の人たちはおしなべて、怒や哀を声高に語ることもなければ、〝しんみり、くどくど〟といった形容とも程遠い存在だ。つらかったろうにと思わずにいられない出来事も、問われれば背筋をピンと伸ばしたままテンポよくさらりと語り、時にはオチまでつけて笑わせてしまう。その見事な切り返しに、未熟者の勝手な憶測や、まして軽々しい同情など失礼きわまりないことを知る。

 せめて、発せられた言葉の真意と、言葉にならずに飲み込まれた心情をできるかぎりの想像力で察し、伝えることが、乞うて話を聞かせていただいた者の責任と思っている。 

***

 芸者さんとして何かやり残したことはありますか?とたずねると、ゆう子姐さんは、そうね……一つだけあるわね、と言った。

「本当は、お酌さんで出たかったの」

 仕込みっ子ならだれでも、綺麗な着物で可愛らしく着飾れるお酌(半玉)にあこがれる。その姿で踊ることを夢見ながら下働きにも耐え、お稽古にも一生懸命精を出す。しかし、ゆう子姐さんが三年の仕込み期間を経てやった迎えた十六歳でのお披露目は、唄うたいの地方としてだった。お酌で出したら借金が増えて可哀相だから、との芸者屋の主人の配慮である。

「同い年の娘さんがお酌さんで出たとき、うらやましかったわよ。その子がお座敷に呼ばれると、私はその子の荷物を抱えて、後ろからついていったの」

「……節分のお化けでお酌さんの恰好をするのはどうですか?」

「仮装は嫌なの。本物じゃなけりゃ、嫌なの」

 冗談めかしたつもりだったのに、思いがけず強い語気で返ってきた声。常に本物であることは、芸者としてゆずれないゆう子姐さんの核に違いない。

***

 ご自宅に伺ったときのこと。長押の上から穏やかな面持ちで見守り続けるその人を見上げて、ゆう子姐さんは「私の恩人よ」と言った。

 恩人――。何気ないひと言が存在感を持って私の中に染み込み、心に引っかかった。その言葉は、情、嫋やか、奥床しい、わきまえ、といった独特の芸者らしさを連想させ、生き方を理解する鍵にも思えた。

 そして気がついた。恩人という表現の根本にゆう子姐さんの誇りがある、と。

 芸者という仕事への、芸者ひとすじを貫いた自分自身への、そしてすべてを肯定した上での花柳界への、誇り。それがあるから、芸者人生を支えてくれたその人を恩人と、とっておきの呼び方で紹介したのだろう。

 誇りを持つ人は品良く強く温かい。どうしたら私もそんなふうに……などと思い始めたとき、冷蔵庫の扉に貼られた手書きの覚え書きが目についた。

「よく働き、よく眠る。」

 私の目の前にいるお手本は、そんな当たり前の毎日を花柳界で八〇年近く積み重ねてきた人だった。

 難しく考えなくていいの、肩の力を抜きなさい、と聞こえた気がした。

【浅草ゆう子】本名・菊池文

大正12年2月4日、東京本所生まれ。数えの十三歳で浅草の置屋「菊の家」に奉公に上がり、三年間の仕込みを経て十六歳で芸者に。昭和二十七年に独立し、「新菊の家」を開く。浅草をどり「浅茅会」では長年、清元の立唄として重要な役割を果たし、「三味線駒次・浄瑠璃ゆう子」のコンビは一時代を築いた。小唄、清元、宮薗、荻江、大和楽名取。小唄師匠。平成十三年度優良芸妓顕彰。現在、花街伝統芸能継承師範。東京浅草組合理事。

 

©sumi asahara