<石川・金沢>もうすぐ「金沢おどり」③。芸妓・峯子さんを想う――負けず嫌い

第12回金沢おどり 2015年9月19日(金)~22日(火)

芸妓として残るのは、芸事に一生懸命な子だった

大正11年建築の金沢西料亭組合事務所(検番)
大正11年建築の金沢西料亭組合事務所(検番)

●芸は身を助く。「ねえや」のはずが芸妓に

金沢では芸妓見習いの女の子を「たあぼ」という。東京の「仕込みっ子」、京都の「おちょぼ」と同じで、置屋に住み込み、姉芸妓の身の回りの手伝いや使い走りの雑用など下働きをしながら芸事を習い、お披露目に備えるのである。ところが、峯子さんの奉公先に決まった置屋「今照(いまてる)」の親方は、そもそも芸妓見習いではなくお手伝いの「ねえや」のつもりで受け入れたのだった。その理由を峯子さんはこう語る――「器量が悪いから芸妓さんとしてはものにならないと思われたがや」。

当然、用事ばかりを言いつけられる。それらを、運動神経が抜群で要領が良く利発な峯子さんは他の誰よりも素早く完璧にこなした。「誰かいないかー?!」と親方の声が聞こえれば「ハイッ!」と真っ先に駆けつける。そろばんの計算も判取帳の難しい漢数字の読み書きもすぐ覚え、集金を頼まれれば即座に大人用の自転車を〝三角乗り〟で漕ぎ出し、4,5キロはなれた駅向こうの得意先まで往復するのに大して時間はかからなかった。こうして親方には賢い子だと褒められ、たあぼ仲間には一目置かれるガキ大将にもなったが、峯子さんは芸妓になりたかった。望んで来たわけではないが、何といっても花街の主役は芸妓。もともと芸事は好きだし、何事も一番にならなければ気が済まない性質(たち)なのだ。

しかし、親方はなかなか踊りを習わせてくれない。芸妓として売れる見込みのない子に元手をかけるわけにはいかないのだ。それならば、と峯子さんは姉芸妓の稽古を盗むように真似て振りを完璧に覚えてしまった。これには親方も驚き、日本舞踊の稽古を許す。その芸性質(げいだち)の良さは師匠・西川流家元の目をも引くものだった。家元はしばしば、「ちびちゃんがちゃんと踊れているのに、お前たちは何をやってるんだ!」と、峯子さんと比較しながら芸妓たちを叱咤したという。家元の「みねちゃんを芸妓さんにしたらいい」のひと言がついに親方を動かし、昭和17年、16歳の芸妓・峯子が誕生した。

●器量のいい子はだんだん駄目になっていった

扇 影 3世の中は戦時下。新しい着物も作れずお披露目も地味だったが、そんなことは芸妓になれた嬉しさに霞む。しかし踊りの上手さとお座敷での人気はそう簡単には結びつかない。若い芸妓を見る客の目は例外なく、まず顔立ちに向くからだ。「器量が悪いと本当に損をする」と、峯子さんは当時の様子を次のように語った。

――若い芸妓さんが5人いるとすると、お客さんは顔のきれいな子から順に近くに呼んで名前を覚える。私が呼ばれるのは5番目や。ところがみんなで一緒に踊ると「あの子、上手いな」と目をつけられて4番目、3番目の存在になる。それではまだまだ満足できない。人より一曲でも多く、少しでもうまく踊れるようにと必死でお稽古をした。お座敷でお客さんが「誰か、踊れる子はいないか?」と聞いたときに、「はいっ!」と勢いよく手を上げるのは私だけや。そのうちに「峯子は何でも踊れる子やな」と感心されて2番になり、とうとういちばんの売れっ妓になった。器量のいい子はだんだん駄目になって辞めていったよ。芸妓さんとして残るのは芸事に一生懸命になる子だった――。

「私は、きかんさかい(きかん子だから)」と峯子さんは何度も口にした。要するに負けず嫌いなのだ、と。負けたくなかったのは、他の芸妓ではなく自分自身の境遇に、だったのだろう。

●「幸せな人生だった」ですべてを締めくくる

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「昭和30年代は売れて売れて、寝る間もないくらい忙しかった。笛は吹く、踊りは踊る、5人も10人も相手によくしゃべる。芸事も遊びも何でも挑戦したよ。太鼓、鼓、お琴、ピアノ、ギター、アコーディオン、フルート……。金沢の芸妓さんで最初にゴルフを始めたのは私や。玉突きもやったけど足が短くて無理やったな。マージャンは好きで、お客さんと徹夜でよくやった。父親ゆずりで博打は得意なんや」――。家が傾いたきっかけさえも冗談ぽく話のオチにして笑わせると、「本当に幸せな人生やったよ」と昔話をあっさりとした言葉で締めくくった。

「芸事を続けると品がつく。名取になれば格がつく。だから芸妓さんは芸事を一生懸命やらなければ……やらなければ芸妓さんじゃない」――身の上を思うとき、峯子さんのこの言葉が何倍もの重みと深みで迫ってくるのである。

(続く)

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